副題「歴史の分析哲学」、河本英夫訳、ちくま学芸文庫、2024年。元の訳書は1989年刊、原書は1965年の Analytical Philosophy of History で、1985年の増補版は Narration and Knowledge と改題している。野家先生の文庫版解説がまた有益。

かなりみっちりと諸説の論駁が続く内容で、ていねいに読むとまたちがうのかなと。いまはまだそこまで読み込む元気はないが、社会学との接続については、第13章を検証すると良さそう。

序文
第1章 実在論的歴史哲学と分析的歴史哲学
第2章 歴史の最小特性 
第3章 歴史的知識の可能性に対する三つの反論
第4章 検証と時制
第5章 時間的懐疑主義
第6章 歴史的相対主義
第7章 歴史と時代編年史
第8章 物語文
第9章 未来と過去
第10章 歴史的説明と一般法則
第11章 物語の役割
第12章 歴史的理解と他の時代
第13章 方法論的個体主義
訳者あとがき
文庫版への訳者あとがき
解説 二つの「言語論的転回」の狭間で(野家啓一)

同時代の「事実」をすべて把握している「理想的編年史」は歴史を語ることができない。「ひとつの出来事についての真実全体は、あとになってから、時にはその出来事が起こってからずっとあとにしかわからないし、物語のなかのこの部分は、歴史のみが語りうるのである」(274)。

未来を知ることの不可能性。「〔ひとつの歴史的な出来事としての〕戦いが予言され、その予言はその後はじめて発見されると想定することにしよう。私たちはそれを偉大な所業とみなし、その発見が遅すぎたことだけを惜しむ。だがその発見が遅すぎたからこそ、それは真実なのである」(325)。

「物語の議論から承認されたと思われるひとつの結論は、物語文を用いてなされた記述において、人間の行為はしばしばほぼ例外なく、意図的ではないということである」(329)。

「歴史家は、行為者とその同時代人が原理上もちえなかった利点をもっている。歴史家は行為を時間的パースペクティブのもとでみるという独自の特権を有しているのである。それゆえ繰り返し強調したように、私たちが歴史家としてかかわる行為から私たちが時間的に隔っているがゆえに、目撃者が知るようにはそれらの行為を知りえないと嘆くのは見当違いの不満なのである。なぜならば歴史の要諦は、目撃者のように行為を知ることではなく、歴史家がしているように、のちの出来事との関連から時間的全体の部分として知ることだからである」(330)。

ダントは、「他の時代」について共感的了解は不可能であり、外面的な了解だけが可能であるとする(第12章)。
「私は時代とは、生活形式の観点から規定されると考えている。時代は、一年や一世紀のような単なる時代編年史的な単位ではない。・・・・・・生活形式とは生きられるものであり、つまるところ生活形式は二段階の理解が可能である。それゆえまた生活形式には、了解も可能である。だが私たちの生活形式と類似しているかぎりで、生活形式を了解するのであって、この類似性が崩れたところでは、外的理解だけが可能である。記述の目的がなんであれ、これで十分である。だが私の論点は、他の時代の成員が用いたようにことばを用いるためには、この時代を規定する生活形式を生きることが必要だということであり、そのさい言語のちがいは、他の時代から私たちを隔てるのである」(474-475)。

1989年の邦訳以来『物語としての歴史』というタイトルがつけられたことは、キャッチーで日本での受容に役立った意味で良かったのだと思うが、ややミスリーディングなところがないでもない。ダントが相手どっている議論――科学や歴史の典型的理解――の様子をみても、ピーター・ウィンチの『社会科学の理念』やトマス・クーンの『科学革命の構造』あたりと共通の志向をもった仕事と位置づけられそうである。

[J0601/250817]