Author: Ryosuke

河合幹雄『日本の殺人』

かつて読んだ本を、機会があって再読。日本における殺人の現実に迫って、非常に勉強になる。データ等を改めた最新版があれば・・・・・・と思う一冊。ひまがあれば、自分で動向を確めてもみたところ。ちくま新書、2009年。

第1章 殺人事件の諸相
第2章 捜査、刑務所生活、そして出所後
第3章 ひとを殺すとはどういうことか
終章 社会的大転換の裁判員制度

2009年の本だという前提で。
当時、『犯罪白書』には「殺人」として1400件。これには「殺人未遂」や「殺人予備」が含まれており、逆に「強盗殺人」が含まれていない。これを差し引きすると、700件ほどとなる。その他見過ごされている数などを加味して、800件ほどと著者は推定する。

その中身として、典型的なのは男女や親子・一家の「心中」で、これは他国に比して多い。心中を含め、殺人事件の半数以上は親族による犯行である。面識なしは1割程度。

また、子殺しは殺人事件全体の三分の一を占めている。かつては嬰児殺しが多かったが、激減している。著者は、未婚での妊娠に対する偏見が弱まったからと推測している。嬰児殺しが多かった頃、殺人事件の未解決事件の多くは嬰児ごろしであった。また、本書では障害児の殺害や、介護殺人についても触れている。

家族がらみ以外の殺人について。「極端に同情できる事例もあれば、極端に酷い事例もあるのが、殺人事件の特徴である」(53)。そのなかで一番多いのがケンカ殺人で、飲酒の上でのケンカ殺人も多いが、数的には減少している。次にはヤクザの殺人であるが、「ヤクザの場合、脅すのが本分であり本当に殺すことは少な」い(100)。保険金殺人は、2004年なら8件ほど。

精神異常者の犯行について、それがしばしば薬物とからむことに著者は注意を促している。精神疾患と犯罪とは直接結びつかないと指摘し、精神疾患への対応を「酔っ払い」の例で説明しているくだりがおもしろい。

「酔っ払いというのは、文句なしに薬物によって正気を失った人なのであるが、これが怖がられてないのは、どういうことであろうか。酔っ払いにはどう対応すればよいかわかっているというこか、慣れているからであろう。実は、ほかの精神病についても、酔っ払いを例にすれば、理解しやすい。よくある誤解は、精神病が重症であるほど危険人物だというものである。酔っ払いが酔いつぶれれば何もできないということを思い出してもらえれば、これは間違いだとわかるでろう。少し酔ってまだ身体能力が残っているものが暴れると危険なのである」(162)。

ほかに、通り魔事件。「幸い、いわゆる通り魔殺人は、年間一桁であって、既遂事件は、その一部であるから数件以下である。費用対効果も考慮して、これをゼロにしなければならないと考えるかどうかを論じなければならない。人の命は、何よりも大切であるから、不謹慎な議論と感じられる方もあるかと思う。後で検討するように、殺人以外の不慮の死や自殺は、総計年間七万を超えている。人の命を大切にするなら、ほかに優先すべき課題がたくさんあるという意味で論じている」(163)。

僕の側でのまとめ。殺人事件とは、なにかを人の興味をかきたてる対象であるが、それだけにひどく「イメージ」先行で語られる対象でもある。そうした背景のひとつは、マスコミがそういった事件を選択的に、そしてセンセーショナルに報道することであり。もうひとつは、ドラマや映画、小説、漫画など、殺人は創作物で人気のモチーフであって、そこで一定のイメージが再生産されていることである。さらには、サイコパスのような心理学的な人物描写が世間で好まれていることも関わっているだろう。

しかし、本書が詳細に示しているように、殺人事件の一般的なイメージが当てはまるのはごくごく少数のレアケースであり、殺人の大多数は、貧困や家庭問題といったどこまでも現実的な条件から生じている。9割方が、社会保障や社会福祉の問題であるといってもいい。これらの「現実」は、おもしろくもなければ、ドラマにもニュースになりにくく、人々はそこに目を向ける機会が乏しい事柄でもある。しかし、こうした「イメージ先行の殺人理解」という問題は、裁判員制度の開始が本書出版のきっかけであるというとおり、適切な処遇や刑罰をどう行使するかといった問題にも直結している。
[J0467/240510]

小野和子『あいたくてききたくて旅に出る』

まずこの本のこと。このパンプクエイクスなる仙台市の出版元自体、小野和子さんのこの本を出版するためのユニットのよう。たしかに細部にまで手のかかった本で、編集者たちの著者への思い入れが伝わってくる。これで3000円以下の値段というのも、けっこうすごい。PUMPQUAKES、2019年。

第1部
オシンコウ二皿ください
石のようになった人
わたしの「友だち」
かのさんのカロ
はるさんのクロカゲ
ひと山越えても鹿おらん
エゾと呼ばれた人たち
みはるさんの『冬の夜ばなし』

第2部
寂寞ということ
「捨てる」ということ
母なるもの、子なるもの
「現代の民話」について
一粒の豆を握る・一粒の豆を見失う
「ふしぎ」の根をさがす
山の民について:猿鉄砲のむかし
浜で出会った人たち
ゆめのゆめのサーカス
小野和子年譜

著者の小野和子さんは、1934年生まれで、宮城県を中心に民話収集(小野さん自身は「採訪」というとのこと)を続けてこられた方。昔話を聞くというと、ほっこりとした癒しのイメージがあるが、この人が民話を聞きに臨む姿勢はひりひりとした緊張感に満ちている。ひとつには、民話の裏に込められた生の姿を聞き逃すまいとして、もうひとつには、彼女が語りを乞うている眼前の人の、「お前は何者か」という問いかけに対峙して。研究者然とも「理解者」然ともせずに民話に臨むこの人には、「いまここから生まれる話」に対して予断がないのだ。
[J0466/240509]

今井悠介『体験格差』

おもには家庭の貧困から、習い事や部活、家族旅行といった「体験」をすることができない子ども、「体験」をさせてあげられない親たちがいるという問題提起の書。「体験格差」という言葉はこれから有名になると思うが、「そういえばそういう子どもたちもいる」というところに目を向けさせるだけでも、この書の意味は大きい。講談社現代新書、2024年。

第1部 体験格差の実態
1 「お金」と体験格差
2 「放課後」の体験格差
3 「休日」の体験格差
4 「地域」と体験格差
5 「親」の体験格差
6 体験格差の「現在地」から
第2部 それぞれの体験格差
1 ひとり親家庭の子ども
2 私が子どもだった頃
3 マイノリティの子ども
4 体験の少ない子ども時代の意味
第3部 体験格差に抗う
1 社会で体験を支える
2 誰が体験を担うのか

よく教育社会学業界ではブルデューの「文化資本」論が引き合いに出されるが、その種の議論は「文化資本」を本質的には空虚なものとしか捉えないし、上流階層の告発の方向にだけ流れて、本書がその必要を訴えるような、そうした資本にアクセスできない層に対する、現実の「体験格差」改善への取り組みにはつながってはこなかったように思う。

本書冒頭に、阿部彩『子どもの貧困』から、日本では「子どもが最低限にこれだけは享受するべきであるという生活の期待値が低い」という指摘を引いている。「飢え死にしないだけよい」という謙虚とも貧乏性ともつかない、こうした日本人の生活観が、こうした子どもの事柄だけでなく、福祉や医療における処遇の問題や、あるいはもっと一般的に労働環境の問題にも繋がっている。しかもこの種の生活観が、すべての場面で適応されているのではなく、生活保護が必要な定収入層や、高齢者や病人といった層に対ししばしば選択的に適用されることが問題なのだ。

[J0465/240508]