Month: November 2025

後藤遼太・大久保真紀『ルポ 戦争トラウマ』

副題「日本兵たちの心の傷にいま向き合う」、朝日新書、2025年。

序章 少年兵は幽霊になった
第1章 沖縄とベトナムが壊した人生
第2章 トラウマの歴史と社会への影響
第3章 父が家に持ち帰った心の傷
第4章 第3世代が語る「戦争体験」
第5章 世代を超える負の連鎖
第6章 市民が見た沖縄、原爆、大空襲
第7章 日本軍が外国で残した爪痕

これは重要な一冊。戦争のことだけでなく、人生というものを考えさせる。戦争では虫けらのように人を殺すが、殺した側にものこる戦争トラウマは、やはり人間には人間を本当に虫けらのように扱うのは難しいということもわかる。その体験はずっとその人や、さらに子孫をまで縛ってしまう。

『戦争トラウマ記憶のオーラルヒストリー』の著者、中尾知代さん。「日本軍が与えたトラウマを直視しないことは、自分たちの加害によるトラウマを癒やす機会も失うことになる。・・・・・・復員兵や家族を苦しめる戦闘や加害のトラウマは、相手のトラウマをまず癒やすことで解消する面もあるのではないか。謝罪や償いによって自責のトラウマを癒やすことで、双方が安堵できるのではないか」(278-279)。

>この本の紹介記事
「おやじ何人殺しとんねん…」元日本軍兵士のDVに耐え続けた家族が見つけた“陣中日記”の真実 | ニュースな本 | ダイヤモンド・オンライン https://diamond.jp/articles/-/375631

[J0615/251130]

内藤芳文『鉄師田部家の経営覚書』

2025年、田部グループ。

1 田部家とたたら製鉄の歴史
2 鉄山経営の基盤固め
3 幾度の困難を克服
4 海運へ進出
5 明治期の激動を乗り越える
6 たたらから木炭に転換
7 第二次世界大戦前後から平成期の展開
8 新たな時代に向かって
9 地域と歩む
別章 田部家の祭礼と行事

雲南市吉田の製鉄師、田部家。田部家には部署ごとに手代が置かれ、そのうち主要な者が番頭を務めるが、そのトップが支配人。著者は、株式会社田部の専務とともに田部家支配人を務めた方。

田部家の歴史をわかりやすく説明。ベースになっているのは、田部家の古文書調査の成果。そうした研究調査を支援してきたことも、田部家の力ある活動の一部である。とくに後半では、手広く事業を行うとともに、地域振興活動を推進・支援することで、どれほど島根県が田部家のおかげをうけてきたかが分かる。

[J0614/251128]

安野眞幸『改訂増補 バテレン追放令』

副題「16世紀の日欧対決」、ちくま学芸文庫、2023年、原著は1989年刊。良し悪しは別として、また著者が実際にマルクス主義者かどうかは分からないが、歴史学者によくあるマルクス主義的反宗教の姿勢が下敷きにあるので、そのことは念頭において読む必要がある。本書は本書で思想が強い。従来のキリスト者によるキリシタン史記述に対する正当な反動でもあるのだろうが。

プロローグ キリスト教と戦国日本の出会い
1 神の平和
 教会領長崎における「神の平和」
2 バテレン追放令
 「バテレン追放令」とその影響
 バテレン追放令とキリシタン一揆
 秀吉と右近―天正十五年六月十八日付「覚」の分析から
補論
 長崎開港と神功皇后との奇しき縁
「岬の先端」の歴史と「精霊流し」
エピローグ

おもしろい指摘、秀吉「バテレン追放令」の前日に作られた「キリシタン禁令」の「覚」に、「八宗九宗」という言葉があると(128-)。つまり、ここでは日本仏教の八宗に、キリシタンの一宗が新たに加わったにすぎないという認識がみられるとの話。

本書の中心主張のひとつとして、当時の日本には信仰の自由の観念がみられるとして、「キリスト教の側からは「神社仏閣の焼き討ち」が行われたのにも拘わらず、日本人の確信として、秀吉もまた仏教を念頭に置いて「信心は各自の自由」だと宣言されていたのである」と述べられている(131)。

「当時のキリスト教が個人の宗教ではなく、「教権制」に基づく「集団の宗教」であると布教を進めるイエズス会士たちが確信していたとしても、当時の日本人にとっての宗教とは、個人の内面の問題であった。ヨーロッパ世界では長井主教戦争を経て「ナントの勅令」によって初めて確立する問題は、この当時の日本では常識であった。秀吉が「八宗九宗」との言葉を言い出す前提には、当時の日本人のこの常識があった」(135-136)。
 「集団の宗教」/「個人の信仰」の対比を、当時のヨーロッパと日本に割り当てるのは単純すぎるし危険でもあるとおもうが、当時のキリスト教がたんなる「個人の信仰」ではなかったことはまちがいない。

さらに著者は、キリスト教との対決のために江戸幕府が「教権制」を模倣したことが、近代の神国論につながったとする。
「幕末の対外危機に際して各藩には尊攘派が生まれ、倒幕・明治維新となったが、維新政府がいち早く西欧列強の模倣に成功した原因は、当時の江戸幕府が、西欧近代の市民革命が否定した「教権制」を模倣し、「寺請け制度」という強制改宗制度を共有していたことがあるからである」(172)。それがさらに、明治維新で日本型華夷秩序のナショナリズムとしての神国論に反転したのだという。
「エピローグ」では、この論点について彌永信美の「日本の「思想」と「非思想」」という論文の発想が参照されている。同じく「エピローグ」から、「「キリシタン世紀」以来現代に至るまで、歴代の日本の外交政策は「対抗イデオロギー」を超えることができなかったとの思いが強く湧いてくる」(338)。

なおこの「キリシタン禁令」について、「A文書[バテレン追放令]が江戸時代以来いわば周知の文書であったのに比べ、このB文書[キリシタン禁令]は、昭和八年(一九三三)頃桑田忠親によって伊勢の神宮文庫の中で発見され、同十四年(一九三九)、渡辺世祐によって歴史学会に紹介されるという華々しいデビューの歴史を持っている」ものだという(220)。

補論のほう、長崎開港と神功皇后伝説との関連の話もおもしろい。おもしろすぎて少し警戒してしまうが。そこで目についたのは諏訪神社の話で、というのも、原爆がらみでも諏訪神社の立場が気になっていたから。寛永元年に再興された諏訪神社。
「諏訪の神・タケミナカタは「諏訪大明神絵詞」から明らかなように蝦夷・異敵[ママ]と戦う神・朝廷の守護神であり、キリシタンを邪宗門として邪教視する長崎奉行にとって都合の良い神であった。神社の再興をめぐって、長崎の宗教界には激しい戦いがあり、奉行の肝いりで神社は再興したのに、人々が参拝しないことに榊原・神尾の両奉行は怒り、住民を閉じ込めて皆殺しにし、住民を入れ替えると脅し、住民の参詣・祝祭への参加を強制した」(298)。

[J0613/251105]