Month: November 2025

町田康『私の文学史』

副題「なぜ私はこんな人間になったのか?」、NHK出版新書、2022年。
町田ファンとして最初は楽しく読んでいたが、次第に表現のなんたるかを迫られる気になり、冷や汗さえかく。あんまり蔵書を増やしたくなくて、読んだらすぐ手放そうと思っていたが、できないな。

第1回 本との出会い――書店で見つけた『物語日本史 2』
第2回 夢中になった作家たち――北杜夫と筒井康隆
第3回 歌手デビュー――パンクと笑いと文学
第4回 詩人として――詩の言葉とは何か
第5回 小説家の誕生――独自の文体を作ったもの
第6回 創作の背景――短編小説集『浄土』をめぐって
第7回 作家が読む文学――井伏鱒二の魅力
第8回 芸能の影響――民謡・浪曲・歌謡曲・ロック
第9回 エッセイのおもしろさ――随筆と小説のあいだ
第10回 なぜ古典に惹かれるか――言葉でつながるよろこび
第11回 古典の現代語訳に挑む
第12回 これからの日本文学

ひとりのたんなる町田ファンとして。北杜夫と筒井康隆を取りあげているところで、ただただ嬉しい。北杜夫は、意外といえば意外なだけに。

第六回では町田は、「「あなたは小説家として、あるいは表現者として、いったい何をやっているですか?」と訊かれたら、「笑いです」と言うと思います。とにかく笑いをやりたい」(106)と言う。町田康論としてはたぶん、ここはさらに、本書以上に深掘りしなくてはならないところなんだろう。一町田ファンとしては、これまたファンである野性爆弾のくっきーを思い出す。「オートマチックな言葉」に対する羞恥のありかたと、日本の日常のベタの取り込み方と、さらに「本当のことを言ったら殺される」(中島らも via 本書の町田康)という認識と。次に、読者である自分自身に対しては、なぜ、かくも笑いが好きな自分が笑いにはしらないんだろうという問いかけが。

これ以降はずっと、町田康の表現者としての独白として、だからこそこちらに突きつけられる話として読む。表現には自意識との闘いの過程があるという話、身につまされる。町田はさらっとさりげなく書いているが、「一日も休まず書き続けることが必要です。これをやることによって、自意識が取り払われ、自分の変さに到達することができる」(179)のだと。姿勢としてたしかにそうなんだろうと思う。ほかにいろいろな認識があった上でのね。ブログ記事として書いたからには謝りますが、本書直接を読む以上の何かを言えていないです。

[J0612/251102]

関根達人『列島横断 日本の墓』

副題「失われゆく墓石を訪ねる」、吉川弘文館、2025年。

プロローグ お墓を訪ね歩く人と失われゆく墓石
墓と墓石の歴史 墓石の誕生から軍人墓まで
両墓制とは 埋め墓と詣り墓
多様な近世大名墓 権力と身分秩序の象徴
個性的な江戸時代の墓石
北の墓 アイヌ墓と蝦夷地の和人墓
南の墓 洗骨と再葬

オールカラーで多くの写真を掲載した全国のお墓のガイドブックだが、著者は墓石の歴史学研究の第一人者だけに歴史的背景もよく分かる有益な書。著者のフィールドのひとつということもあり、松前をはじめとする北海道の墓にも比較的手厚いところも特徴。税込み2420円はお買い得。

[J0611/251101]

長岡龍作『日本の仏像』

副題「飛鳥・白鳳・天平の祈りと美」、中公新書、2009年。

序章 仏像を造るとはどういうことか
第1章 聖徳太子のために造られた仏像
第2章 生身という思想
第3章 釈迦に出会う
第4章 仏はどこにいるか
第5章 天の働き
第6章 国土を法界にする
第7章 救済のかたちと場所
終章 重ねられる祈り

古代の仏像を細部にわたって考証し、当時の人びとの心象世界にまで迫る。本書を読んで、古代の仏教世界が中世以降のそれといかにちがっているか、また自分がどれだけ「仏教」にかんする現在のイメージで古代のそれを判断してしまっているかに気づかされた。「古代の人々の前には、仏教と神仙思想は一体となってあった」(110)という言い方も、なるほどそういえばと。

ついつい現存する仏像や寺院でものを考えてしまうが、失われたものも多い、なんなら失われたものの方が多いということについても、あらためての気づき。天平時代に天智天皇がつくった大安寺釈迦如来像がとても尊重されていて、生身の釈迦に比されていたというような話など。四天王の役割の時代的変遷の話も興味ぶかかった。

図版として紹介されていた大阪・長円寺の十一面観音像が印象に残った。いつかみてみたいな。

[J0610/251031]