副題「16世紀の日欧対決」、ちくま学芸文庫、2023年、原著は1989年刊。良し悪しは別として、また著者が実際にマルクス主義者かどうかは分からないが、歴史学者によくあるマルクス主義的反宗教の姿勢が下敷きにあるので、そのことは念頭において読む必要がある。本書は本書で思想が強い。従来のキリスト者によるキリシタン史記述に対する正当な反動でもあるのだろうが。

プロローグ キリスト教と戦国日本の出会い
1 神の平和
 教会領長崎における「神の平和」
2 バテレン追放令
 「バテレン追放令」とその影響
 バテレン追放令とキリシタン一揆
 秀吉と右近―天正十五年六月十八日付「覚」の分析から
補論
 長崎開港と神功皇后との奇しき縁
「岬の先端」の歴史と「精霊流し」
エピローグ

おもしろい指摘、秀吉「バテレン追放令」の前日に作られた「キリシタン禁令」の「覚」に、「八宗九宗」という言葉があると(128-)。つまり、ここでは日本仏教の八宗に、キリシタンの一宗が新たに加わったにすぎないという認識がみられるとの話。

本書の中心主張のひとつとして、当時の日本には信仰の自由の観念がみられるとして、「キリスト教の側からは「神社仏閣の焼き討ち」が行われたのにも拘わらず、日本人の確信として、秀吉もまた仏教を念頭に置いて「信心は各自の自由」だと宣言されていたのである」と述べられている(131)。

「当時のキリスト教が個人の宗教ではなく、「教権制」に基づく「集団の宗教」であると布教を進めるイエズス会士たちが確信していたとしても、当時の日本人にとっての宗教とは、個人の内面の問題であった。ヨーロッパ世界では長井主教戦争を経て「ナントの勅令」によって初めて確立する問題は、この当時の日本では常識であった。秀吉が「八宗九宗」との言葉を言い出す前提には、当時の日本人のこの常識があった」(135-136)。
 「集団の宗教」/「個人の信仰」の対比を、当時のヨーロッパと日本に割り当てるのは単純すぎるし危険でもあるとおもうが、当時のキリスト教がたんなる「個人の信仰」ではなかったことはまちがいない。

さらに著者は、キリスト教との対決のために江戸幕府が「教権制」を模倣したことが、近代の神国論につながったとする。
「幕末の対外危機に際して各藩には尊攘派が生まれ、倒幕・明治維新となったが、維新政府がいち早く西欧列強の模倣に成功した原因は、当時の江戸幕府が、西欧近代の市民革命が否定した「教権制」を模倣し、「寺請け制度」という強制改宗制度を共有していたことがあるからである」(172)。それがさらに、明治維新で日本型華夷秩序のナショナリズムとしての神国論に反転したのだという。
「エピローグ」では、この論点について彌永信美の「日本の「思想」と「非思想」」という論文の発想が参照されている。同じく「エピローグ」から、「「キリシタン世紀」以来現代に至るまで、歴代の日本の外交政策は「対抗イデオロギー」を超えることができなかったとの思いが強く湧いてくる」(338)。

なおこの「キリシタン禁令」について、「A文書[バテレン追放令]が江戸時代以来いわば周知の文書であったのに比べ、このB文書[キリシタン禁令]は、昭和八年(一九三三)頃桑田忠親によって伊勢の神宮文庫の中で発見され、同十四年(一九三九)、渡辺世祐によって歴史学会に紹介されるという華々しいデビューの歴史を持っている」ものだという(220)。

補論のほう、長崎開港と神功皇后伝説との関連の話もおもしろい。おもしろすぎて少し警戒してしまうが。そこで目についたのは諏訪神社の話で、というのも、原爆がらみでも諏訪神社の立場が気になっていたから。寛永元年に再興された諏訪神社。
「諏訪の神・タケミナカタは「諏訪大明神絵詞」から明らかなように蝦夷・異敵[ママ]と戦う神・朝廷の守護神であり、キリシタンを邪宗門として邪教視する長崎奉行にとって都合の良い神であった。神社の再興をめぐって、長崎の宗教界には激しい戦いがあり、奉行の肝いりで神社は再興したのに、人々が参拝しないことに榊原・神尾の両奉行は怒り、住民を閉じ込めて皆殺しにし、住民を入れ替えると脅し、住民の参詣・祝祭への参加を強制した」(298)。

[J0613/251105]