副題「なぜ私はこんな人間になったのか?」、NHK出版新書、2022年。
町田ファンとして最初は楽しく読んでいたが、次第に表現とは何か、を迫られている気になり、冷や汗さえかく。あんまり蔵書を増やしたくなくて、読んだらすぐ手放そうと思っていたが、できないな。
第1回 本との出会い――書店で見つけた『物語日本史 2』
第2回 夢中になった作家たち――北杜夫と筒井康隆
第3回 歌手デビュー――パンクと笑いと文学
第4回 詩人として――詩の言葉とは何か
第5回 小説家の誕生――独自の文体を作ったもの
第6回 創作の背景――短編小説集『浄土』をめぐって
第7回 作家が読む文学――井伏鱒二の魅力
第8回 芸能の影響――民謡・浪曲・歌謡曲・ロック
第9回 エッセイのおもしろさ――随筆と小説のあいだ
第10回 なぜ古典に惹かれるか――言葉でつながるよろこび
第11回 古典の現代語訳に挑む
第12回 これからの日本文学
ひとりのたんなる町田ファンとして。最初に北杜夫と筒井康隆を取りあげているところで、ただ嬉しく感じる。北杜夫は、意外なだけに。
第六回で町田は、「「あなたは小説家として、あるいは表現者として、いったい何をやっているのですか?」と訊かれたら、「笑いです」と言うと思います。とにかく笑いをやりたい」(106)のだという。
町田康論としてはたぶん、ここはさらに、本書以上に深掘りしなくてはならないところだろう。一町田ファンとしては、これまたファンである野性爆弾のくっきーのことを連想する。「オートマチックな言葉」に対する羞恥のありかただったり、日本の日常のベタの取り込み方だったり、さらに「本当のことを言ったら殺される」(中島らも via 本書の町田康)という認識だったり。次には、なぜ、かくも笑いが好きな自分が笑いにはしらないんだろう、と自分自身に問いかける。
これ以降はずっと、町田康の表現者としての独白として、だからこそこちらに突きつけられる話として読む。表現には自意識との闘いの過程があるという話。町田はさらっとさりげなく書いているが、「一日も休まず書き続けることが必要です。これをやることによって、自意識が取り払われ、自分の変さに到達することができる」(179)のだと。
ここでも依然、くっきーと並べて考えてしまう。それにしても彼らは、誰に向けた意識で表現(笑い)をしているのだろうとか。笑いをしたいと言いつつ、万人にうけなくても構わないという感覚があるんだよ。でも表現はし続けるという。
[J0612/251102]
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