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栗田シメイ『コロナ禍を生き抜くタクシー業界サバイバル』

扶桑社新書、2021年。

第1章 緊急事態宣言と東京のタクシー
第2章 壊滅した成田空港タクシー
第3章 群雄割拠、乱世きわめる大阪タクシー
第4章 トヨタ経済圏とタクシー
第5章 ロイヤルリムジン600人一斉解雇騒動のその後
第6章 タクシー配車アプリは業界の救世主か、破壊者か
第7章 年収1000万円、スーパードライバー達の仕事術
第8章 ドライバー経験を基にしたユニークな生き方
第9章 人生を力強く切り開く女性ドライバー達
第10章 新卒ドライバー達の、とらわれのない業界観
第11章 外国人ドライバーは人手不足解消の希望となるか

この本、タイトルに偽りあり、と言いたいかも。ただし、悪い意味ではなく。たしかにコロナ禍で厳しい状況に置かれているタクシー業界の様子にも触れられている。だけれども、後半になるにしたがい、たいへんながらもこの仕事や業界を楽しみがんばっているドライバーさんたちの姿や、そのお話の裏側にうかがわれる暖かいお客さんの存在も伝わってきて、「闇を暴く」というよりも、スタッズ・ターケル『仕事!』に近い感じで、このへんはきっとライターさんの人柄なんだろう。露悪的に闇ばかり描くのとはちがったリアリティがある。

タクシー業界、ひいては個人相手の運搬業というのは、国それぞれや時代の事情を如実にあらわしておもしろい主題。日本だったら、Uberが(少なくともここまでの第一波のところで)入りこめなかったかという問題にはずっと関心を持っている。次のブログ記事は、なるほどと感じた説明のひとつで、海外ではふつうタクシー業界ってもっとインフォーマル・セクターっぽいのだよね。といって、これもイギリスのケースには当てはまらないが・・・・・・。

>KEN NISHIMUAR、「なぜUber配車サービスは日本で失敗したのか」、Coral.

[J0270/220605]

エイトケン他『医学とキリスト教の連携』

J.T.エイトケン、H.W.C.フラー、ダグラス・ジョンソン著、榊田博訳、すぐ書房、2002年。原著 The Influence of Christian in Medicine は、1984年。

目次
キリスト教と医学―そのおのずからなる連携
病院の開設と基金の調達
過去の努力と実績の継承
新しい学問の効果
近代科学の勃興
十八世紀の著名な開業医
感染の知識、疼痛の緩和、外科手術の安全性向上
予防医学の先駆者たち
医学教育と医学生
医の倫理の確立にむけて
近代看護の発達
多面的な医療のケア

19世紀の看護や医療的ケアの発展に、宗教組織がどのように関わっていたかを描いたシオバン・ネルソン『黙して、励め』(原田裕子訳、日本看護協会出版会、2004年)のことをかねてから良い研究だなと思っていて、その流れを思い出しながら、ふと本書を手にとる。本書の方は「キリスト教の輝かしい活躍の歴史」というニュアンスが濃いことは否めないが、時代においても対象においても広い範囲を扱っていて、この主題に見通しを与えてくれる。

たとえば、キリスト教徒による病院建設を、次の5つの時代区分から説明している。
(1)草創期:313-476
(2)暗黒時代における修道院型病院:476-1000
(3)中世期における病院(1000-1500)
(4)近世(1500-1800)
(5)19・20世紀(1800-現代)

意識して探してみたわけではないけれど、ありそうで案外とない、貴重な情報源ではないのかな。

[J0269/220526]

ポール・コナトン『社会はいかに記憶するか』

副題「個人と社会の関係」、芦刈美紀子訳、新曜社、2011年、原著1989年。

第1章 社会の記憶
1 回想の作用
2 フランス革命 王の公開処刑/フランス革命 衣服のスタイル
3 歴史の再構築/ライフ・ヒストリー
4 個人の記憶/認知の記憶/習慣の記憶
5 精神分析/実験心理学/ウィンチ 習慣と規則/サーリンズ 衣服の「言語」/社会的慣習の記憶
6 アルヴァックス 集合的記憶

第2章 記念式典
1 ヒトラーと記念式典
2 世界宗教と儀礼
3 儀礼とシンボル表象/儀礼と集合表象/儀礼と歴史
4 儀礼と神話/ギリシャ神話/儀礼の言語
5 忘却・模倣・反復/再現のレトリック 暦/言葉/身振り

第3章 身体の実践
1 具体化と表記/姿勢/アルファベット/映画
2 身体の技巧・礼儀作法・儀式/ジェスチャー/テーブルマナー/貴族
3 プルースト・サン=ルーのふるまい/サドナウ ジャズピアノ/習慣とは
4 解釈学/ローマ法/聖書/パフォーマンス

集合的記憶の問題を取りあげて、とくに「記念式典」の重要性を説くが、その際に、従来は見逃されてきたという、身体的な記憶としての習慣の役割を重視するのが著者の立場。

記憶の主張について、次の三類型を立てる。(1)個人の記憶の主張、(2)認知の記憶の主張、(3)習慣の記憶の主張。このうち、習慣の記憶は、現代の規約主義でも精神分析でも無視されてきたとして、ピーター・ウィンチとマーシャル・サーリンズの所論をその展開例として批判する。
「習慣は、規則とその適用を分離する研究の形式において明白に排除され、コードとその執行を分離する研究の様式において暗黙のうちに排除される。〔…だが〕言語の構造から演者による実際の言語の使用に注意を向けるやいなや、言語についての単なる知識、すなわち、規則やコードの知識だけでは、適用と執行という類似語に包括されてきた実践を完璧にこなすことは不可能だとわかる….」(59-60)

儀礼は遂行的言語であり、形式化された言語である。「式典がその参加者にとって有効で、説得力をもつためには、参加者が単にパフォーマンスを成し遂げる認知的能力をもつだけでなく、そのパフォーマンスを習慣とする必要がある」(126)。「すべての集団において、最も保存したいと願望される価値や分類は身体の自動性に委ねられる」(183)。

「伝統の発明を主張するアプローチの偏りは、儀礼の遂行性を考えることができない結果である。そのため、儀礼の発明の問題と、持続性の問題の区別が曖昧にされてしまう。歴史主義者はその儀礼の創造者の意図をじゅうぶん吟味することを求める。……それは儀礼を理解するために十分でないだけではなく、必要な条件でさえないことがしばしばである。ここでは、儀礼を「読む」という概念があまりにも文字通りに受け入れられていることを主張したい」(185-186)。

 所感。集合的な記憶の問題について、記念式典のような儀礼が重要であること、しかもそれが遂行的な性質のものである点については異論はない。ただし、儀礼が一種の遂行的な言語であり、たしかに習慣的記憶との結びつきが強いとしても、そのことの中心に「身体的な性格」を認めることが可能がどうか。筆者は否定するであろうが、身体性を過度に強調することで、集合的記憶の基盤がふたたび「個人」へと帰せられているような気がする。思考における習慣というものもあるわけだし、無意識的な――集合意識的な、と言うこともできるだろう――「意識せざる習慣」のすべてが身体に属するわけでもあるまい。身体はあくまで表現の媒体である。

 さて、筆者は「記念式典」の意義を強調するが、それは近代という文脈においてであるのか、あるいは社会集団一般についてであるのか。よく精読したわけではないので僕の中でペンディングにしたままだが、備忘でメモっておく。以下の抜き書きも関連するかな。
「モダニティという状況下では、反復の祝典は単に代償という戦略でしかありえない。というのは、モダニティという原則そのものが、人生を祝福された反復の構造ととらえる考えを否定するからである。…資本の蓄積に不可欠なのは、創られた環境を、繰り返し意図的に破壊することである。…資本の論理はいまや、人生を模範の反復の構造ととらえる想像力を否定しようとするのである」(114-115)。

その他の抜き書き。

ルイ16世の裁判と処刑について。「この王殺しは矛盾語法の要素をもつ。すべての王室の葬儀を終結させるために、ルイ十六世には王としての葬儀が与えられなければならなかった」(14)。「ある制度を廃止するための儀礼は、その制度をそれまで強化してきた側の儀礼を、逆の意味合いで想い起こさせて初めて意味をなす。王政の儀礼的な終焉とは、否定したものに対する恨みを晴らし、決着をつけることである。王朝原理の否定、この場合はその否定を儀礼的に演ずることになるが、それは依然として滅ぼされた王朝についての説明であり、その回想である」(15)。

「全体主義国家の国民の精神的隷属は、国民の記憶が剥奪された時から始まるのである。巨大な権力が小国の愛国心を奪い取ろうとするとき、組織化された忘却という方法が用いられる」(24)。

[J0268/220508]