副題「人生を聞いて書く」、ちくま新書、2025年。調査の方法論を説明して、これだけ読ませる本にするのだから、さすがの筆力。
第一章 生活史とは何か
第二章 語り手と出会う―調査という「社会関係」
第三章 調査の進め方
第四章 語りの聞き方
第五章 聞き手から書き手へ―編集と製本
そういう考え方もあるのか、と思ったのは、一般論や「公式見解」にみえるものを否定しないというところ。「代表者の語り」にも意味と価値があると。この種の主張が、第2章と第5章に2度出てくる。活動家の例に関して、「一見すると定型的に見える語りは、特定の社会問題の構造や歴史を考えるうえで決定的に重要な何かが含まれていることも多いですし、そもそも人びとの語りというものは、定型的にみえても実は千差万別で、非常にユニークで個性的なやりかたで語られているはずです。「定型的」なのは、こうした語りを定型的でしかないものとして受け取ってしまう、私たち聞き手のほうなのだと思います」(220)。もっとも、これは岸さんの聞き取りがなかなかのストロングスタイルで、3~4時間も聞くやり方だということと、フィールドが沖縄で、定型的といってもオルタナティブな立場になりやすい土地での定型だからだとは、ちょっと想像する。
「私たちは、たまたまお会いできたひとりの方とお会いして、そのときにたまたま二、三時間語られた言葉を、ありがたくいただくのです。「すべて」や「本音」は、もちろん、語られた場合にはとてもありがたいのですが、そればかりを目標にすると、おそらく聞き取りの方向性を強力に枠付けることになって、自由な語りは生まれなくなるでしょう」(229)
「定型的な語り」も含めて、あくまで「引き出す」という姿勢を避けると。「積極的な受動性」というのが、生活史のアプローチを説明する本書のキーワード。たしかに、ジャーナリストや新聞記者は「聞く必要があること」を積極的・能動的に聞くことになる。特定のテーマに関する社会学的インタビューは、その中間くらいに位置するのかな。
一方で、「私個人としては、沖縄の調査をするさいの理論枠組みや仮説などは、基本的には調査対象者と共有するべきだと思います」(240)と言っていて、別に理論書ではないんだからいいんだけど、固いことをいえば、インタビュー中には「自分の話は一切しないほうがよい」というような別の箇所での説明との整合性にとまどうところもなくはない。
アポとりについて、電話をかける時間のことをあれこれ述べて、「しかし何時に電話するか、ということだけも、これぐらい悩みます。悩むべきです」(139)というところなどは、調査法の手引きにはあまり出てこないけど、たしかに大切。一方の「手土産」の話、項目や説明はあるべきだけど、外連味を感じてしまう文章量なのは、まあまあご愛敬か。
メモを一切とらないというのもびっくり(別にメモをとることを否定してもいないが)。個人的には、話の流れで質問をするときに役立つので、重要な単語のレベルにかぎりながら、ぜったい取る。自然な間も取りやすいし。詳しく聞きたい話に戻るときとかにメモが役立つ。「3時間や4時間はあっという間」(187)というところも、驚きポイント。僕の場合はそれなりに目的や主題ありきの「ちょっとだけ生活史」だからなんだろうが、1時間がベースで、だいたいなんとなく1時間半くらいにはなり、2時間となるとかなり充実。それ以上は話が薄くなりがち、というのが経験則。そりゃあ、4時間もかけたら、話し手も聞き手も疲れる。
聞き手をつのって調査をしてもらうという経験が豊富なのも、岸さんならでは。聞き手の人には、「前の晩に100個の質問を作ってください」とお願いするらしい。それで「聞き取りの場ではその質問項目を見ないでください」とお願いして、一問一答にならないようにするとのこと。
「生活史の語りは、行為選択とその理由についての語りの連鎖です。そして私たちの人生そのものも、行為選択とその理由の連鎖と蓄積です」(286-287)
[J0635/260114]
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