ハルキ文庫、2025年。底本は2009年。
序章 ハーンと世界
第一章 アメリカのジャーナリスト
第二章 クレオールの真っ只中へ
第三章 日本の第一印象
第四章 日本という問い
第五章 ヴィクトリア朝の知識人
終章
補論 究極の怪談―十六年後の感想
日本に関する著述に関心が集中しがちなところ、ハーンの文学と思想の全体像を描こうとする。ベンチョン・ユーの『神々の猿』といった例外をのぞくと、そういった試みはほとんどないとのこと。ある程度ハーンを読んで、その宇宙的ヴィジョンの魅力に触れてきた身として正直な感想をいえば、内容面で特別に新しいことはないが、それだけ、これまでのハーン論・八雲論が偏ってきたということではあるだろう。その意味では穏健なところに価値のある一書だと思う。
なので、日本来訪以前のことも重視する。なるほど、シンシナティで書いた記事として紹介されている次の文章など、たしかにいかにもハーン=八雲らしい。
「地球上に死体がまき散らされている。その深層はひとつの広大な納骨堂であり、そこには何世紀にわたって、わずかばかりの期間を生き長らえ、そのふところに倒れ伏した生命のない肉体の塊、どうしようもなく不快な物質の一片となった人類の遺骸が蓄積している」
著者自身の評から、「ハーンの思考には、確かに二つの極があった。事物、生命、日常の細部にかぎりなく知覚をとぎすまし、個々の存在の差異に細やかな注意をむけることがひとつの極である。もうひとつの極は、かぎりなく広大な宇宙的広がりに照らして世界を、生命を、人間を展望するような見方である。しかし、ハーンにとって、二つのことを決して矛盾しなかった。個々のそれぞれの存在は、決して統一もされないし、総合もされずに、ただ異なるものとして対面し、対面しながら、共振し、協和し、共存しうるのだ」(252)
本書でも一部引かれている文章として、メモ。
>鶴見俊輔「日本思想の言語:小泉八雲論」(NDL)
[J0646/260222]
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