Month: January 2026

N. ウィーナー『サイバネティックス』

ノーバート・ウィーナー、副題「動物と機械における制御と通信」、池原止戈夫・彌永昌吉・室賀三郎・戸田 巌訳、岩波文庫、2011年、原著初版は1948年、第二版は1962年。この文庫版には、大澤真幸氏が10ページ以上の解説を寄せている。

分からないながらも読んでいると、あちこちどこかで聞いたような話が。昔、工作舎の本でふれたような。当時ウィーナーがもたらしたイマジネーションの、影響力の大きさを感じる。

日本語版のまえがき/第2版への序文
第I部
序章
第1章 ニュートンの時間とベルグソンの時間
第2章 群と統計力学
第3章 時系列、情報および通言
第4章 フィードバックと振動
第5章 計算機と神経系
第6章 ゲシュタルトと普遍的概念
第7章 サイバネティックスと精神病理学
第8章 情報,言語および社会
第II部
第9章 学習する機械,増殖する機械
第10章 脳波と自己組織系
訳註/訳者あとがき/第2版への訳者あとがき/文庫版あとがき
解説「サイバネティックス:20世紀のエピステーメーの中心に」(大澤真幸)

フィードバックと恒常性=ホメオスタシスの問題。

「力学の概念は、物理学から生物学や心理学にまでは、まだ浸透していなかった。18世紀の代表的な生物学者であるリンネは収集家で分類家であり、その見解は今日の進化論者・生理学者・遺伝学者・実験発生学者とはまったく対立するものであった。・・・・・・同様に心理学においても心の内容という観念が精神の作用という考えを圧倒していた。これは、名詞が本質と考えられ、動詞がほとんどまったく重要性をもたなかった世界のことで、実体を重視したスコラ学の態度の名残ともいえよう」(244-245)。

「機械的または電気的装置によるものであっても、あるいは脳そのものであっても、大型の計算機というものは相当の電力を要し、そのすべてが消費され、熱として散らされてしまうのである」(253)。いまのAIの電力消費の問題に触れているね。ただし、エネルギー消費量と情報処理の性能が比例するわけでもないとも述べている。

社会に関するウィーナーの見方は、けっこう慎重。「共同社会の有効な情報量に関連して、国家に関するもっとも驚くべき事実の一つは、有効な恒常作業が極度の欠けていることである」(299)。そして、アメリカの自由競争市場に対する「信仰」を否定している。

報道手段の締めつけと、それによる情報の歪み。利益の多いものの優越、富裕階級への偏り、権力的野心との結びつき。「報道の体制は他の何にまして社会の向上作用に貢献しなければならないのに、権力や金のゲームに最大の関係をもっている人たちの手にそのまま引き渡されることになる。そしてこのゲームは、すでに見たように、共同社会の恒常作用に反する主たる要素の一つなのである」(305)。

サイバネティックスの社会への応用にも否定的。「精密科学におけるすべての偉大な成功は、現象が観察者からある程度以上に離れている分野で得られたのである」(306)。巨大な天体を扱う天文学、微細な粒子を扱う原子物理学。「観察者と観察される現象との結合を最小にすることが最も困難になるのは社会科学においてである。観察者の側からいえば、社会科学における観察者は彼の注意をひく現象に大きな影響を与えることができる」(307-308)。時間的にも、データが集められる期間がかぎられる。「社会科学では短い期間の統計を取り扱わなければならないし、また、観察結果の相当な部分が、観察者自身の影響によって加工されたものでないと確信をもつことができない」(309)。

「〔社会科学では〕要するに自然科学でいつも得られるものと比較しうるほど確実で意味のある情報は得られないのである。われわれはそれらを無視することはできないが、その可能性を過大に期待することもできない。好むと好まざるとにかかわらず、専門的な歴史家に用いられている〝非科学的〟な、説話的な方法にたよらざるを得ないものが、そこには多く残されているのである」(309)。
 なるほどなあ、観察の問題だ。

「生物組織を特徴づけるものとわれわれが考えている現象に、つぎの二つのものがある。学習する能力と、増殖する能力である。この二つは、一見異なっているようだが、互に密接に関連している」(314)。「個体の個体発生的な学習」に対し、生殖による自然選択は「種属的、または系統発生的な学習」(314)ということができる。「種属的、個体的学習はともに、動物が自分自身を環境に適応させていく手段である」(314)。同趣旨、「学習は、個体の経験による環境への適応、すなわちいわゆる個体的学習の基礎であるのに対し、増殖は、種属的学習の基礎をなす。後者は変異や自然淘汰がはたらく対象である」(335)。
 おもしろ。

「ヒトにおいて、またそれほどではないが他の哺乳類において、この個体的学習と、個人的な適応性は最高に発達している」(315)。人工の機械にとっても、学習の方が簡単で、技術的発展もずっと進んでいる。ただし、学習機会の動きは杓子定規で問題を生じうるという。増殖機械の理論についても、非線形変換器の標準形による表現を基礎に考察している。

第二版に加えられた第十章では、自己組織するシステムを、脳波の自己構成を引きあいに出して論じている。「周波数のひきこみを生じる非線型の相互作用は自己組織系を作りうることがわかった」(368)。ウィルスやがんの増殖に対する応用可能性も。

全体を通して、出してくる事例がいろいろおもしろい。

たしかにウィーナーの議論には、フィードバック機構を備えた自己組織的システムのイメージをすでに含んでいる。ただ「制御と通信」というサブタイトルもそうだし、上記の個体発生的学習の側だけをとってしまうと、ハードウェアに対するソフトウェアだけを更新していくイメージになるかもしれない。

[J0640/260126]

加藤喜之『福音派』

副題「終末論に引き裂かれるアメリカ社会」、中公新書、2025年。評判にたがわぬおもしろさ。すごいなあ(語彙)。福音派の動向を通して「アメリカ的なるもの」をこう見事に突きつけられると、おのずとこちら側、日本社会の性質にも関心が向く。

序章 起源としての原理主義
第1章 「福音派の年」という転換点――一九五〇年代から七〇年代
 1 原理主義者と福音派のはざまで
 2「福音派の年」とカーター大統領
 3 終末に生きる選ばれし者たち
第2章 目覚めた人々とレーガンの保守革命――一九八〇年代
 1 政治的な目覚め
 2 モラル・マジョリティの誕生
 3 レーガン政権と福音派のせめぎ合い――保守革命の裏で
第3章 キリスト教連合と郊外への影響――一九九〇年代
 1 パット・ロバートソンの政治戦略
 2 フォーカス・オン・ザ・ファミリーと伝統的家族観
 3 クリントンの信仰と六〇年代の精神
 4 ウォルマートとメガチャーチの止まらぬ拡大
第4章 福音派の指導者としてのブッシュ――二〇〇〇年代
 1 ボーン・アゲイン大統領とネオコンの思惑
 2 九・一一と小説のなかの終末論
 3 信仰の公共性
 4 スキャンダラスな福音派と右派の失速
第5章 オバマ・ケアvs.ティーパーティー――二〇一〇年代前半
 1 初の黒人大統領と福音派左派
 2 オバマ・ケアと中絶問題
 3 ティーパーティー運動
 4 アメリカ建国偽史
 5 高まる人種間の緊張
第6章 トランプとキリスト教ナショナリズム――二〇一〇年代後半から
 1 白人とイスラエルの味方として
 2 保守化する司法と中絶・同性婚問題
 3 キリスト教国家と非宗教者
終章 アメリカ社会と福音派のゆくえ

本当は、各章ごとにまとめをしたいところだが、まずは抜き書きだけ。

アメリカの「市民宗教の大祭司」とみなされたビリー・グラハム。若いカトリックのジョン・F・ケネディは、伝統的で白人プロテスタントにとっては「脅威でしかなかった」。「ここにチャンスを見出したのがグラハムだった」(35)。・・・・・・「新しい時代になり、グラハムの「アメリカの牧師」としての権威を揺さぶる出来事が二つあった。人種問題とベトナム戦争である」(36)。

「クリントンも福音派も、キリスト教を市民宗教と見なす点では同じである。その点で、両者ともグラハムの思想的な子供たちだ。が、1960年代の精神革命への評価において両者の意見は真っ向からぶつかる」(127)。

208頁あたりでロバート・ベラーの市民宗教論があらためて引きあいに出されているが、本書に描かれているのは、アメリカの市民宗教をどう定義するかという争いの様子だ。それを、キリスト教と同一視するか、民主主義と同一視するか、福音主義と同一視するか、あるいは白人の宗教と同一視するか等。

2000年代、「ネオコンと福音派のあいだに、思想的な共通点はほとんどない。両者に共通する思想として、明確な善悪の基準や歴史観などが挙げられもするが、それらは表層的なものだ。むしろ両者の関係は、利害の一致と言えるだろう。ネオコンの軍事覇権と中東における権益の確保という目的には、福音派の支援が有益であった。反対に福音派の世界宣教やイスラエル保護という目的には、ネオコンの軍事政策が役に立つ」。そして「両者を結びつける最大の架け橋として機能した」のが「ブッシュ大統領の存在」であった(147)。

「福音派の歴史は、アメリカの歴史と同様に人種主義の歴史でもある」(214)。2010年代、「年配の福音派にとって、オバマの存在は白人のナショナリスティックなキリスト教への脅威以外のなにものでもなかったのだろう。恐れは暴力を生む」(215)。

近年における「ノンズ」すなわち「非宗教者」の急増。「米国には非宗教者が増えている。だが同時に、非宗教はただちに無神論を意味しない。・・・・・・重要なのは信仰の内容――つまりは無神論にみられるような神の否定――ではなく、信仰の形態――つまりは教団への所属の否定――なのだ」(262)。

「非宗教者の増加は米国社会の単純な世俗化を意味しない。むしろ、社会は両極化しており、一方では非宗教者たちが既成の宗教や教団を否定し、もう一方で福音派はキリスト教ナショナリズムに代表されるように、その攻撃性を強めている。つまり、米国社会は世俗化ではなく、分極化の道を進んでいると言えるだろう」(265)。

「一つ言えるのは、福音派の活動を単純な意味での宗教復興運動とはみなせないことだ。・・・・・・より重要なのは、特に南部や南西部を基盤とする文化的な復興運動としての側面である。福音派が懸念したのは、アメリカ文化がキリスト教的な土台から離れていくことだった」(282-283)。つまり、反・カウンターカルチャーみたいなことか。

「半世紀の間に、60年代の精神は強まっている。非宗教者に見られる世俗化、文化的多元主義、BLMやウォークはその代表的なものだ。したがって、米国文化のキリスト教化を目指す福音派と、リベラルで進歩主義的なカウンターカルチャー勢との対立は先鋭化し、結果、米国社会の分断や分極化は深まるばかりだ」(284)。

[J0639/260124]

吉川浩満『理不尽な進化』

増補新版、副題「遺伝子と運のあいだ」、ちくま文庫、2021年、底本は2014年。もともとはウェブの記事だったとのこと。学芸文庫ではなく、ちくま文庫。最初はテーマ的に自然科学の研究者と思いこみ、これだけ読んで書けるのは凄いとおもったが、人文学のアカデミックなポストの人でもないのか。そういうのは関係ないんだね。非業界人の自由さみたいなことだけではなく、的確さがある。

序章 進化論の時代
第1章 絶滅のシナリオ
第2章 適者生存とはなにか
第3章 ダーウィニズムはなぜそう呼ばれるか
終章 理不尽にたいする態度
文庫版付録 パンとゲシュタポ

デイヴィッド・ラウプが整理した、絶滅の道筋のパターン、1「弾幕の戦場」、天体や隕石の衝突など。2「公正なゲーム」、ほかの種との生存闘争。3「理不尽な絶滅」、ある意味1と2の組み合わせ、なんらかの生存のルール変更。1のような単なる事故でもない。

適応主義をめぐる激しい議論。すべての生物の特質は自然淘汰の結果として進化的な最適値へと調整されているはずだという考え方、これをグールドは批判する。すなわち、自然淘汰以外の要因があるのだからとして、多元主義的アプローチを主張する。

学界では勝利を収めたと認められている〔また著者もその点を認める〕ドーキンスやデネットのような主流派は「困っていない」。「彼らが困らないのは、適応主義的アプローチという方法論をあくまで方法論として割り切って運用しているからだ。論争は適応主義プログラムを方法論として割り切ることができる者と、そのようには割り切れない者のあいだにある」(261)。

グールドのこだわり、「適応主義による歴史の毀損に抗して、ありうべき歴史の擁護と回復を行うこと、これが彼の底意地だった」(267)。「自然淘汰が推敲するエンジニアリングがどれだけ見事なものであろうとも、そのメカニズムに活躍の場を与えるのは歴史的な諸状況である。・・・・・・進化なしの歴史を考えることはできるかもしれないが、歴史なしの進化などおよそ考えられない」(268)。

グールドのやりかた、「生物にかかわる「現在的有用性」と「歴史的起源」の区別を保持すること」(270)。

「進化の過程に偶発性を見出すことは、進化の過程がすなわち「歴史」であるという基本的な事実を確認することだ」(323)。

「自然の説明」と「歴史の理解」。「たとえば、物理学においては後者(一般的なものへは還元のしようもない雑多な特殊性)はトリヴィアルなものとして、つまり無関係というわけではないがとりあえずは無視できる要素として扱われるだろう.他方で歴史学においては前者(抽象的な一般性)がトリヴィアルなものとして扱われるだろう。しかるに進化論においては、両者はともにトリヴィアルどころではない。そこでは両者が同様に全幅の資格をもって自らの権利を主張するのだ・・・・・・・このように、進化論の特異な魅力はその中間的性格にある」(328-329)。

グールドの「地獄めぐり」。「進化論の魅力の源泉である中間的性格は、それを護持しようとする者を混乱させる地雷となる。彼は正しく問題を見定めたが、むしろそれによって進むべき道を失ったのである」(329-330)。

「じつのところ、グールドが適応主義プログラムにたいする最後の砦として独自の味付けをほどこした偶発性の概念は、「方法」によってもたらされる学問的知識を超えたものになっている。いくらグールドがそれを科学の言葉で語ろうとしたところで、それは事実上、ハイデガーやガダマーが追究した人間の根源的な世界経験としての「真理」に属する事柄であり、あくまで非方法的(非学問的)な「理解」によって感受されるしかないものである。・・・・・・では、グールドは最後の砦である偶発性を、どうすればよかったのか。彼は彼の偶発性概念を(本書の意味で)正しく理不尽さと呼べばよかったのである」(358)。

「ダーウィニズムは、三浦俊彦の言い方を借りていえば、目的論的にしか理解できない事象を結果論的に説明する方法を発明したのである。エリオット・ソーバーはこれを「目的論の自然化」と呼んでいる。ここで大事なことは、目的論的にしか理解できない事象を結果論的に説明する革命的理論を手にしたとしてもなお、私たちがその事象を目的論的にしか理解できないという事態は変わらないということである。目的論的思考はそれだけ強力な認知バイアスであり、自然淘汰説は人間には習得しづらい考え方というより、そもそも人間の考え方ではない」(362)。

[J0638/260123]