副題「中世人はどうして税を払うのか」、早稲田新書、2025年。
中世後期の荘園の変化という、従来注目されてこなかった領域を解説。中国人としては、東寺百合文書にあらわれる新見荘の話がよく出てくるのも嬉しい。そしてまた、中世の税管理すなわち荘園管理では、神仏の存在も大きかったという。

はじめに―税の論理は時代を超える
第一章 荘園とは何か
第二章 課税する論理、納税する論理
第三章 中世人の生存競争―税をめぐる現場のトラブル
第四章 中世社会の変質と税―南北朝の動乱から室町の平和へ
第五章 終わる荘園制―税の論理のゆくえ
おわりに―税の見返りに求めるべきは…

「中世は(というよりも前近代を通じてのことだろうが」厳然たる身分社会である。身分とは、つねに上位者から下位者とへ与えられるものであり、身分の制約に大きく依存することで社会秩序が維持されている。しかし、下位者は上位者に対して一方的に献身するだけだったわけではない。少なくとも中世には、無償の忠誠などという片務的なものは存在しなかったと考えた方がよい。そして、それは武士だけにあてはまることではなく、百姓の「奉公」や「忠勤」もまたしかりである。いざというときに安堵を回復・保全してくれるならば、公平・公益のためという領主の課税に応じねばならないという姿勢を百姓はみせていた」(101-102)。

鎌倉幕府を滅ぼした、後醍醐による建武政権の影響。
「幕府の滅亡により、最後まで幕府に与した人々が有していた荘園関係のポストは空席になった。そのなかでも多数を占めたはずの得宗領は、先述のとおり明義としては得宗家が地頭でも、実態はもはや領主と同然になっており、その新しい獲得者は武士に限らなかった。たとえば東寺は新見荘や太良荘で、あるいは小槻氏は若狭国国富荘(福井県小浜市)で、いずれもそれまで務めてきた領家の地位に加えて、得宗領となっていた地頭をも兼ねることを後醍醐から認められた」(203)。

「室町期になると、いちおうの平和をとりもどしたうえに、南北朝の合一を果たした幕府の地位は上昇する。結果として、将軍家や有力な守護は多くの荘園を獲得した。とくに将軍家は最大級の規模を誇る荘園領主に成長し、荘園の統治構造においても、天皇家を差しおいて名実ともに頂点に立つまでになる。たとえば中世後期になると、第二章で述べた最勝光院のように多くの御願寺が衰微したため、本所が史料に現れない荘園が増えるのだが、将軍家は新たに御願寺を建立してその御願寺に荘園を寄進して、それを財源として先祖の追善仏事を行わせた。将軍家は御願寺を指揮・管理し、御願寺は本所とした荘園を所有するという、中世前期の天皇家でもみられた構図である。将軍家では出家した女性が尼門跡と呼ばれる寺院の住持となり、その寺院が荘園を所有する場合もあった。彼女たちには、天皇家の女院と同じように一族の荘園を管理する役割が期待されていたのである。将軍の御願寺を一つ挙げるとすれば、それは何といっても義満の発願で創建された相国寺(京都市上京区)である」(219-220)。

著者は(というか中世史研究者の常識なのかもしれないが)、応仁の乱のあと、細川政元による将軍の擁廃立事件、明応の政変(1493年)が大きな画期になったのだという。
「こうして荘園制はその保護者を名実ともに失い、戦国期の始まりとともに終わりを迎えた。これはすなわち、いまだ列島各地から荘園が消滅したわけではないものの、もはや荘園制とはいえない社会になったということである。それは、いまだ室町幕府が滅亡したわけではないが、もはや室町期とはいえない時代になったということと似ている。戦国期まで残った荘園も、おおむね距離の遠い荘園から領主への税の納入が途絶えていった」(266)。

[J0661/260506]