Month: March 2026

井口真紀子『関わりつづける医療』

副題「多層化する在宅医の死生観と責任感覚」、勁草書房、2025年。これは現代日本の死生学にとって重要な研究。今日、死生観を論じようとするのであれば、医療現場の様子を踏まえなくてはならない。歴史学的研究ならともかく、いわゆる人文学領域内部でだけあれこれ現代の死生観を取りざたしている研究には力がない。対して本研究は、看取りにのぞむ在宅医たちの感覚や言葉を記述していて、とても貴重で有益。

第1章 なぜ在宅医の死生観に注目するのか
第2章 調査の方法と倫理的配慮
第3章 変容する医師の役割認識
第4章 意思決定に関わる―見える実践・見えない実践
第5章 死を超えて他者とつながる
第6章 在宅医の死生観と責任の感覚
終章 在宅医の語りから見えてくること

著者は、ご本人が家庭医療・在宅医療が専門の医師とのこと。

「地域の開業医として働くことは独特の経験である。孤独がついてまわることもその特徴」(210)であるという。
「患者と適切に距離をとり、標準化された合理的な治療を行うことが、現代社会において患者と穏当に交流する方法であり、医師としての職責を適切に果たすことでもある。しかし、生活経験の世界に入っていく在宅医療ではそれだけではすまないところがある。医師たちはおそるおそる医学的な合理性とは別の価値や意味であふれる生活世界に踏み出し、医学的な合理性も大切にしながらもお互いが納得するところを探していく」(261)。
 とりわけ、医学的な標準化された合理性をはみだしがちな、死の問題に直面したときには、というわけである。とにかく、本書が書きとめている在宅医たちの語りが印象的。

[J0654/260331]

海老原嗣生『外国人急増、日本はどうなる?』

PHP新書、2025年。著者はコンサル兼編集者みたいな方の模様。事実認識としては、マスコミやSNSが煽る外国人危険論をデータでたしなめる。その上で労働問題のポイントを特定して、外国人受入れ政策に関する提案をおこなう。ぱらぱらぱらと読んだかぎりでは、その提案も大筋良さそうにみえる。

序 やばい!危ない!でも人手が足りない…。
第1章 あなたの身の回りの外国人は危ない人なのか?
第2章 日本人だけでやってこれたから、今後も大丈夫?
第3章 企業は外国人を低賃金で酷使し、儲けているのか?
第4章 外国人材戦略が大金を生み「世界制覇」を狙える!

大事なのは、数量の程度を把握するということ。不法滞在外国人は、滞在外国人の2%にすぎない。不法滞在者は1990年代にくらべると5分の1に減った。難民申請はたしかに増えた。そうした増加の分は、難民申請中に就労を認めるよう規制緩和した国に集中している。滞在外国人の犯罪率は日本人と誤差程度の差しかないが、送還忌避者にかぎると犯罪発生率は異常に高い。したがって、「外国人全般を憎まず、的を絞って、適宜規制強化すべし」と述べる。

労働力の問題。女性にしても高齢者にしても、精査すると今後人手不足は深刻化していく。そうすると人件費などのコストがかさむ。それはそれでヨーロッパ型の社会として成立しえないことはないが、製造業の空洞化と食料自給率の低下を生んで、災害時などの国家的リスクは上昇する。そこで著者が提案するのは、①低生産性企業の整理・淘汰、②自動化・省力化投資、③雇用再延長、④外国人就労で、もちろん本書一番の論点は④にある。

企業につとめている外国人の場合は、年金料も天引きなので、そのかぎりでは未納はない。帰国した場合、その半分は一時金として母国に持ち帰ることができる。ただし、おかしいのは企業側が納めた年金料は国が没収している現状だという。それを適切な外国人材支援政策に回すべき、というのが著者の主張のひとつ。

著者は、就労期限がきたら3分の2は帰国するようなサイクルを作り、企業の年金料を支援政策に回すとともに、選別の上で、日本社会の力強い構成員となる「共助外国人」を育成・認定すべきだとする。さらには、日本語を「世界語」のひとつに格上げすることを目標に、日本語学校を海外にも設けるなど、年間100万人が新規に日本語を修得するという未来図を提示している。

世界に日本文化の理解者や支持者を増やすというビジョンには希望がある。ぱっと見では「就労期限がきたら3分の2は帰国する」というサイクルをどのようにつくるのか、というあたりの具体策が気になるか。

[J0653/260329]

石牟礼道子『椿の海の記』

河出文庫、2013年。もとの単行本は1976年刊。
水俣に生まれた幼少時代の、豊穣な「天地」と「人間」との体験世界を描く。
あまりにすばらしく、すべてが「真実」とも思えないほど。たとえば狂女の母「おもかさま」の描写など。もっとも彼女が実際にこの幻想的な世界を生きているのだから、やはり真実であるとしか言えないだろう。

第一章 岬
第二章 岩どんの提燈
第三章 往還道
第四章 十六女郎
第五章 紐とき寒行
第六章 うつつ草紙
第七章 大廻りの塘
第八章 雪河原
第九章 出水
第十章 椿
第十一章 外ノ崎浦
あとがき
河出文庫版あとがき
解説(池澤夏樹)

春の季節に手にとったのはちょうど良かった。冒頭からそうなのだが、季節の描写のなかでもとくに、春の大地や草木にたちのぼる濃厚な気配がこの本には立ちこめている。

「山の稜線や空のいろが虚空のはてに流れ出したり、そびえ立つ樹々の肌が、岩より硬く大きく割れだしてみえる日に、そのような世界の間を吹き抜けてゆく風の音が、稚い情緒を、いっきょに、人生的予感の中に立ちつくさせることがある。ことに全山的に咲く花々のいろや、その芳香というものは、稚いものを不可解な酔いの彼方に連れてゆく。春の山野は甘美で不安だが、秋の山の花々というものは、官能の奥深い終焉のように咲いていた。春よりも秋の山野が、花自体の持つ性の淵源を香らせて咲いていた。女郎花、芒、桔梗、萩の花、葛の花、よめなの花、つわ蕗の花、野菊の花。そのような花の間に名も知れぬ綿穂を浮かせたちいさな草々がびっしりと秋色をあやどり、それらが全山に開花してゆく頃になると、空はいよいよ静謐に深くなる。山の中腹や萩や葛の花の下にもぐり込んで横たわり、彼方を仰げば、花頂をはなれた全山の綿穂や花粉がいっせいに、きら、きらと光りながら霧のようにただよいのぼり、山々の姿が紗をかむったようにゆらめているのを見ることがある。山野が放つ香気のようなものが目に見えるのである。稚いものにはそのような山野の精気は過剰すぎ、ある種の悶絶にわたしはしばしばおちいった」(17-18)

たしかに幼少期独特の幸福感に満ちている感覚もあるが、それだけではとても尽きていない。次の文章は、数年が経ってのことだろうか。

「えたいの知れぬ恍惚がしばしば訪れ出していた。季節変りの風が光るとき、山嵐の音がごうと空を渡るとき、秋の山野の花穂の靄につつまれるとき、梅雨どきの大濁流をみつめているときなどに。もう赤んぼではなくなって、わたしは山のそこかしこに自分の世界の持っていた。萩も芒もかるかやも、桔梗も、みんなわたしの背より高かった。そのような時期の山野は、土も草もほどよく乾いて、茸くさい香気が漂いのぼるのである。かたわらで春乃や隣りの小母さんが、藷の蔓などをひきはがしながら話をかわしている声が、なんだかひどく耳ざわりにきこえるのは、五官のすみずみを照らし出そうとしている、情緒のくるめきのせいかもしれなかった。情緒などというような意味の言葉はまだ知らなかったが、網膜のうちに昼の虹が彩なして浮かびつづけ、自分はどこから来たのか、なぜここにこうしているのか、自分はたれか。父と母がいて弟がいて、祖母がいて、権妻殿がいて、近所の人がいて、町があって野道があって、空があるゆえ、なお自分はだれであるかわからなかった。山の畠につられて来て、秋の山野の草の中をさまよっていることはわかっていても、不思議な、処理しようのない自他の存在感がなやましかった。自分はどこへゆくのか、五官のすべてを総動員して、わたしは知りたがり、ほとんどやつれてくらしていた。草とか水とか、麦とか雪とかになり替ってみることは、むしろ安息でもあったのだ」(196-197)

ここに描かれている世界も、たんに自然に満ちた純粋な、非時間的な民俗世界というわけでもない。「道」や町のにぎわいも、あるいは女郎屋といった存在も入りこんできた世界であって、それを後の水俣病に結びつけないとしても、この世界を構成するものでありつつ、何かこの世界に一種の陰を与えてもいるのである。

[J0652/260329]