増補新版、副題「遺伝子と運のあいだ」、ちくま文庫、2021年、底本は2014年。もともとはウェブの記事だったとのこと。学芸文庫ではなく、ちくま文庫。最初はテーマ的に自然科学の研究者と思いこみ、これだけ読んで書けるのは凄いとおもったが、人文学のアカデミックなポストの人でもないのか。そういうのは関係ないんだね。非業界人の自由さみたいなことだけではなく、的確さがある。

序章 進化論の時代
第1章 絶滅のシナリオ
第2章 適者生存とはなにか
第3章 ダーウィニズムはなぜそう呼ばれるか
終章 理不尽にたいする態度
文庫版付録 パンとゲシュタポ

デイヴィッド・ラウプが整理した、絶滅の道筋のパターン、1「弾幕の戦場」、天体や隕石の衝突など。2「公正なゲーム」、ほかの種との生存闘争。3「理不尽な絶滅」、ある意味1と2の組み合わせ、なんらかの生存のルール変更。1のような単なる事故でもない。

適応主義をめぐる激しい議論。すべての生物の特質は自然淘汰の結果として進化的な最適値へと調整されているはずだという考え方、これをグールドは批判する。すなわち、自然淘汰以外の要因があるのだからとして、多元主義的アプローチを主張する。

学界では勝利を収めたと認められている〔また著者もその点を認める〕ドーキンスやデネットのような主流派は「困っていない」。「彼らが困らないのは、適応主義的アプローチという方法論をあくまで方法論として割り切って運用しているからだ。論争は適応主義プログラムを方法論として割り切ることができる者と、そのようには割り切れない者のあいだにある」(261)。

グールドのこだわり、「適応主義による歴史の毀損に抗して、ありうべき歴史の擁護と回復を行うこと、これが彼の底意地だった」(267)。「自然淘汰が推敲するエンジニアリングがどれだけ見事なものであろうとも、そのメカニズムに活躍の場を与えるのは歴史的な諸状況である。・・・・・・進化なしの歴史を考えることはできるかもしれないが、歴史なしの進化などおよそ考えられない」(268)。

グールドのやりかた、「生物にかかわる「現在的有用性」と「歴史的起源」の区別を保持すること」(270)。

「進化の過程に偶発性を見出すことは、進化の過程がすなわち「歴史」であるという基本的な事実を確認することだ」(323)。

「自然の説明」と「歴史の理解」。「たとえば、物理学においては後者(一般的なものへは還元のしようもない雑多な特殊性)はトリヴィアルなものとして、つまり無関係というわけではないがとりあえずは無視できる要素として扱われるだろう.他方で歴史学においては前者(抽象的な一般性)がトリヴィアルなものとして扱われるだろう。しかるに進化論においては、両者はともにトリヴィアルどころではない。そこでは両者が同様に全幅の資格をもって自らの権利を主張するのだ・・・・・・・このように、進化論の特異な魅力はその中間的性格にある」(328-329)。

グールドの「地獄めぐり」。「進化論の魅力の源泉である中間的性格は、それを護持しようとする者を混乱させる地雷となる。彼は正しく問題を見定めたが、むしろそれによって進むべき道を失ったのである」(329-330)。

「じつのところ、グールドが適応主義プログラムにたいする最後の砦として独自の味付けをほどこした偶発性の概念は、「方法」によってもたらされる学問的知識を超えたものになっている。いくらグールドがそれを科学の言葉で語ろうとしたところで、それは事実上、ハイデガーやガダマーが追究した人間の根源的な世界経験としての「真理」に属する事柄であり、あくまで非方法的(非学問的)な「理解」によって感受されるしかないものである。・・・・・・では、グールドは最後の砦である偶発性を、どうすればよかったのか。彼は彼の偶発性概念を(本書の意味で)正しく理不尽さと呼べばよかったのである」(358)。

「ダーウィニズムは、三浦俊彦の言い方を借りていえば、目的論的にしか理解できない事象を結果論的に説明する方法を発明したのである。エリオット・ソーバーはこれを「目的論の自然化」と呼んでいる。ここで大事なことは、目的論的にしか理解できない事象を結果論的に説明する革命的理論を手にしたとしてもなお、私たちがその事象を目的論的にしか理解できないという事態は変わらないということである。目的論的思考はそれだけ強力な認知バイアスであり、自然淘汰説は人間には習得しづらい考え方というより、そもそも人間の考え方ではない」(362)。

[J0638/260123]