副題「「性」と「死」はなぜ生まれたのか」、NHK出版、2014年。
刺激的な議論であることはまちがいない。また、著者が生物学者としてひたむきで凄い方なんだろうことも分かる。が、思考にある種の頑なさがあって、鵜のみはできないぞと。逆にそこが仮想の議論の相手としては良いのかも。あと、遺伝学は日進月歩と聞くので、そこのフォローもしなくてはね。
序章 ゾウリムシと私
第1章 有性生殖の意味論
第2章 有性生殖の起源論
第3章 有性生殖の進化論
第4章 抑制系の進化
終章 要約と展望
本書を読んでいると、生物における性別がいかに多様かがよく分かる。「体の性差」(生殖器官の性差)、「配偶子の性差」(生殖細胞の性差)、「脳の性差」(繁殖行動上の性差)などがあり、しかも、異性間でなくても、無性生殖や同性生殖もありうると。
「生物の誕生から約18億年間は、地球上は原核生物のみの世界であった。原核生物を餌にできる原生生物(≒真核性単細胞生物)が登場するのは18億年経過以降であるから、原核生物のみの世界は、捕食者のいない世界でもあった」(75)。
本書の議論で一番疑問に思われるのは、「有性生殖の不在=寿命がない」と措定していることだ。終盤に多少の言い訳があるが・・・・・・(「細胞の有性生殖に始まる個体発生過程は、例外なく個体の老化寿命で終わる」(198))。有性生殖が歴史上、老化のメカニズムとセットで発生した、ということにかぎれば、首肯しうるし、それは重要な指摘なのだが。
「大局的に見れば、原核生物は寿命をもたず、真核生物は寿命をもたないものともつものとが混在するので、生物は「寿命をもたない生物から寿命をもつ生物へ」進化したことになる。「生物は寿命をもたないのが本来の姿であった」と言ってもよい」(79)。著者によるこうした理解の基礎になったのが、1954年のT・M・ソネボーンの論文らしい。
「寿命とは「有性生殖のあと一方向(非可逆的)な変化を経て死に至るまでの期間」と定義できる」(89)。だから、論点先取じゃないのかと。著者は、「有性生殖をしても寿命をもたない」事例が生じうる可能性は一応、認めている(93)。しかし、無性生殖のあとに必然的に死ぬということは、定義上排除されている。
なお、有性生殖の概念も自明ではないという。そこには、「性の分化」「遺伝的多様化」「世代交代(若返り)」「減数分裂と受精」という4つの特徴があり、著者はそのなかでも「減数分裂と受精」とが「有性生殖のエッセンス」だと述べている(94-95)。
著者が自分の発見として押す「原初有性生殖仮説」。「1倍体の無性生殖サイクルは、ゲノムの安全対策として、複製の重複により2倍体の無性生殖サイクルに移行し、2倍体の無性生殖サイクルは、蓄積した突然変異の有用性を検証するため、分配の重複により1倍体の無性生殖過程へ移行する。1倍体と2倍体との無性的な移行の繰り返しが、有性生殖の原初的な姿であったろうとする仮説」(101)。それぞれのフェーズの観察はあるが、フェーズ間の移行についてなんら検証はされておらず、それを期待しているとは著者自身が述べているところ。やはり、「サイクル」として時間的推移の過程を想定しているところが難点にみえる。一方、「突然変異の有用性を検証するための一倍体化と、進化資源としての突然変異を安全に保持するための二倍体化」という、それぞれのフェーズの適応上の意義については、なるほどと。
突然変異による変異(の表現)は、あまり激しくても困るし、なくても長期的な適応に繋がらないかもしれないという事情。また、著者はあまり述べていないが、生物が複雑な機構を備えるようになると、原核生物のように、変異がどんどん表現されると個体自体が生存することができなくなるはずだ。哺乳類のように機構が大型化し複雑化すると、トライアンドエラーの過程を高速で回す原核生物よりも「保守的」にならざるをえないだろう。
これは著者がはっきり述べているが(155ff.)、有性生殖のなかでも、反適応的な特性を生みやすい劣勢ホモが生じやすい同系交配を防ぐために、性転換が抑制されて、異系交配へシフトしていったと推測されるという。というわけで、著者の描く進化の図式(157の図)。「無性生殖」→「原初有性生殖」→「オートガミー型」→「同系交配型」→「異形交配型」。
細胞分裂の分裂限界の話。ゾウリムシにも300~600回の分裂限界があるそうな。多年草から一年草への進化もその一例であるが、分裂の抑制は、進化過程上の獲得物であるとみられると。有性生殖の進化とは、無性生殖を抑制する方向の進化であるとのこと。ただし、有性生殖は、無性生殖ともまたちがって、いったん若返りをもたらすことがふしぎであるとのこと。
著者が整理する有性生殖に付随する特徴(188-)。
① 有性生殖では、個体性をいったん解消して、全能性の単細胞に戻してから個体発生をスタートさせる。
② 有性生殖に携わる細胞は、個体を作る細胞群のうちの限られた細胞である。
③ 有性生殖が可能になるには時間を要する。(性成熟の時間)
④ 有性生殖が可能な期間は限られる。
⑤ 有性生殖は老化・死で終わる寿命の始点になる。(たとえば卵生・胎生を問わない)
「人は「老化し死ぬ能力」を手にした生物と言うべきだろう」(194)。
「老化は機能を全うさせなくなる自然の仕組みだと考えると、エイジングに逆らおうというのは自然の仕組みに逆らおうという不自然な試みになる。いわば、発生――ディベロップメント――に逆らって「アンティディペロップメント」、進化――エボリューション――に逆らって「アンチエボリューション」を唱えるようなものだと思えてしまう」(205)
「現代は「ガンで死ぬことができるようになった時代」だとも言える」(206)
「未来をもつ乳幼児や青少年、家族・社会を支える働き盛りの壮年たち、彼らの病気を治す行為と、老人の病気を治す行為とは意味が違う。医者は相手が誰であっても病気を治すのが仕事なので、区別をすることはできないが、患者は自覚して意味の違いを認識することができる」(206)
まったくきれいな「自然主義的誤謬」だが、医師の職責にかんしては、たしかにそうかも。
さて、ではちょっと整理をしておこう。本書の議論は概念のレベルでは雑で、死の概念はもっと整理をしなくてはならない。まず、単位の話としては、細胞単位の死/不死、遺伝子情報単位の死/不死、生物個体単位の死/不死、種単位の死/不死あたりの区別が、まず立てられようか。それから、それぞれの単位における「死」の意味するところ、とくに再生産(生殖)との関連で。
本書では、原核生物は不死の存在とされている。それはずっと無性生殖の連鎖を続けることができるという意味あいである。しかし実際には突然変異が起こっているわけだから、同一の遺伝子情報が維持されるわけではなく、同一個体や同一情報の維持という意味での不死とは言いがたい。たんに一細胞の生存という意味であれば、原核生物の細胞だけが可能なわけではない。細胞=一個体である単細胞生物(原核生物のほとんどすべてかな?)と、複数細胞=一個体である多細胞生物(真核生物の大部分)では、死/不死の概念自体がちがっていると言わざるをえない。特定の細胞は永続しても、一個体としては存続していない多細胞生物は、そこにすべての遺伝子情報が入っているとしてもやはり不死とは言いがたいはずである。本書は死/不死が明瞭であるかのように述べているが、それは無理である。また、老化と死とを単純に重ね合わせてよいかどうか。
有性生殖の発生が、個体における細胞の衰え(老化、本書では死)のプログラミングとセットで進化してきたという洞察はきっとそのとおりだろう。ただ、両者がどこまで必然的に結びついているかはまた別問題である。ただ、ips細胞のように細胞レベルならともかく、個体レベルでみるとそのプログラムは「きわめて」複雑に仕組まれているはずで、老化しない人間の夢は現実的に難しかろうということは、なんとなく本書を読んでいても悟ることができる。
「有性生殖の発生は、個体における細胞の衰え(老化、本書では死)のプログラミングとセットで進化してきた」。それはわかった。でもそれが「なぜ」というと、やはり分からない。なにか、歳を重ねた個体の遺伝子が混ざるとよくない事情でもあるわけだろうか(その個体には老化のプログラムを仕掛けていないとしても)。理由の想像だけなら多少はできるが、あくまで想像、有性生殖もして個体も永続して、という世界線もありそうなものだが。「不死」の原核生物も変化しているわけだから、変化がないようにつくられた生物はないということなのか。単純に、複雑になった生物を長期間維持するのは難しいということだろうか。
自然淘汰のメカニズムを強調するとすれば、どこかの種の時点で「有性生殖+個体の老化なし」グループと、「有性生殖+個体の老化あり」グループとで、後者の方が適応的だったという状況があったということなのか。
ええと、すっかり内容を忘れてしまったが、こちらとも読み比べるべきだろう。
>小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』講談社現代新書、2021年。
[J0660/260505]
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