河出文庫、2013年。もとの単行本は1976年刊。
水俣に生まれた幼少時代の、豊穣な「天地」と「人間」との体験世界を描く。
あまりにすばらしく、すべてが「真実」とも思えないほど。たとえば狂女の母「おもかさま」の描写など。もっとも彼女が実際にこの幻想的な世界を生きているのだから、やはり真実であるとしか言えないだろう。

第一章 岬
第二章 岩どんの提燈
第三章 往還道
第四章 十六女郎
第五章 紐とき寒行
第六章 うつつ草紙
第七章 大廻りの塘
第八章 雪河原
第九章 出水
第十章 椿
第十一章 外ノ崎浦
あとがき
河出文庫版あとがき
解説(池澤夏樹)

春の季節に手にとったのはちょうど良かった。冒頭からそうなのだが、季節の描写のなかでもとくに、春の大地や草木にたちのぼる濃厚な気配がこの本には立ちこめている。

「山の稜線や空のいろが虚空のはてに流れ出したり、そびえ立つ樹々の肌が、岩より硬く大きく割れだしてみえる日に、そのような世界の間を吹き抜けてゆく風の音が、稚い情緒を、いっきょに、人生的予感の中に立ちつくさせることがある。ことに全山的に咲く花々のいろや、その芳香というものは、稚いものを不可解な酔いの彼方に連れてゆく。春の山野は甘美で不安だが、秋の山の花々というものは、官能の奥深い終焉のように咲いていた。春よりも秋の山野が、花自体の持つ性の淵源を香らせて咲いていた。女郎花、芒、桔梗、萩の花、葛の花、よめなの花、つわ蕗の花、野菊の花。そのような花の間に名も知れぬ綿穂を浮かせたちいさな草々がびっしりと秋色をあやどり、それらが全山に開花してゆく頃になると、空はいよいよ静謐に深くなる。山の中腹や萩や葛の花の下にもぐり込んで横たわり、彼方を仰げば、花頂をはなれた全山の綿穂や花粉がいっせいに、きら、きらと光りながら霧のようにただよいのぼり、山々の姿が紗をかむったようにゆらめているのを見ることがある。山野が放つ香気のようなものが目に見えるのである。稚いものにはそのような山野の精気は過剰すぎ、ある種の悶絶にわたしはしばしばおちいった」(17-18)

たしかに幼少期独特の幸福感に満ちている感覚もあるが、それだけではとても尽きていない。次の文章は、数年が経ってのことだろうか。

「えたいの知れぬ恍惚がしばしば訪れ出していた。季節変りの風が光るとき、山嵐の音がごうと空を渡るとき、秋の山野の花穂の靄につつまれるとき、梅雨どきの大濁流をみつめているときなどに。もう赤んぼではなくなって、わたしは山のそこかしこに自分の世界の持っていた。萩も芒もかるかやも、桔梗も、みんなわたしの背より高かった。そのような時期の山野は、土も草もほどよく乾いて、茸くさい香気が漂いのぼるのである。かたわらで春乃や隣りの小母さんが、藷の蔓などをひきはがしながら話をかわしている声が、なんだかひどく耳ざわりにきこえるのは、五官のすみずみを照らし出そうとしている、情緒のくるめきのせいかもしれなかった。情緒などというような意味の言葉はまだ知らなかったが、網膜のうちに昼の虹が彩なして浮かびつづけ、自分はどこから来たのか、なぜここにこうしているのか、自分はたれか。父と母がいて弟がいて、祖母がいて、権妻殿がいて、近所の人がいて、町があって野道があって、空があるゆえ、なお自分はだれであるかわからなかった。山の畠につられて来て、秋の山野の草の中をさまよっていることはわかっていても、不思議な、処理しようのない自他の存在感がなやましかった。自分はどこへゆくのか、五官のすべてを総動員して、わたしは知りたがり、ほとんどやつれてくらしていた。草とか水とか、麦とか雪とかになり替ってみることは、むしろ安息でもあったのだ」(196-197)

ここに描かれている世界も、たんに自然に満ちた純粋な、非時間的な民俗世界というわけでもない。「道」や町のにぎわいも、あるいは女郎屋といった存在も入りこんできた世界であって、それを後の水俣病に結びつけないとしても、この世界を構成するものでありつつ、何かこの世界に一種の陰を与えてもいるのである。

[J0652/260329]