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中野卓編著『口述の生活史』

副題「或る女の愛と呪いの日本近代」、御茶の水書房、1977年。1995年に増補版も出版されている。また、中野卓(なかのたかし)については著作集もある。

第1章 松代の生れる前
第2章 私のおいたち
第3章 自助としつけ
第4章 男たち
第5章 「ニイサン」と死んだ子
第6章 満州
第7章 東塚の家と嫁入り
第8章 朝鮮の旅と脱出
第9章 呼松の家で
第10章 昭和50年前後

もともとは、編著者が水島臨海工場地域の公害問題について住民調査を行ったときに、倉敷市呼松で出会った女性だとのこと。「これは明治26年(1893)生まれた或るお婆さんが話してくれた彼女の一生の物語です。瀬戸内海、水島灘に直向う古い干拓地の村に生れ、神戸の町と故郷の村をゆききして育ち、満州や朝鮮に苦難の旅を経たのち、故郷の村から遠からぬ漁港兼回船業の町に嫁し、いまは水島工業地帯の石油化学コンビナートと化した「前の海」に接するその田舎町で、数え年85歳の一人暮しをしているそのお婆さんの話してくださった通りの話であります」(1)。

前半は、満州や朝鮮でのエピソードをはじめ、まさに波乱万丈。
後半、岡山に戻って当時の現在にいたる部分には、先達ないしなかば拝み屋として彼女が信仰している鬼子母神、お稲荷さん、お大師さんの様子が詳細に描かれている。お稲荷さんがのりうつったり(205-)、「イススキさん」(石鉄山前神寺の不動尊)に「叩かれたり」声をきいたり(278-)といったエピソードも。

[J0538/241122]

立岩真也『増補新版 人間の条件 そんなものはない』

新曜社、「よりみちパン!セ」シリーズ、2018年。


1 できなくてなんだ
2 ならどうならよいか・1
3 しかしこの世のしくみ――私たちの社会は変だ
4 でも社会はそうじゃないかという話
5 人は違うものを信じている
6 差は仕方がない、必要だというお話について
7 「機会の平等」というお話がいけてない話
8 むしろ差は大きくなる
9 文句の言い方
10 世界の分け方
11 違いへの応じ方
12 材料も仕事も分ける
補・1 教科書に書いたこと
補・2 三人の人と話してみた
補・3 健康で文化的な最低限度?
本の紹介
終わりに

補足の中に「つよくなくてもやっていける」という、筆者が書いた新聞への寄稿記事があるが、それを読めば思想の骨子はじゅうぶんつかめる。

他、メモ。

「それで考えるに、「搾取」という話はあまりうまくいかないようだ。それは生産に対する「貢献」を基準にしている。私たち労働者はこんなに貢献しているのに、というのである」(216)。

ニーズに関して、「医療はあればあるだけよいというものではない」(268)。介護や介助も同様であると。「まず、一日は二十四時間でそれ以上長くなることはない。そして多くの場合、その仕事は一人について一人で足りる。すると上限が決まっているということだ」(269)。「私たちはすぐ、「最低限度」とか、「基準」を決めたがる。決めないとやっていけないと思っている。しかしいつもそうか。そのことを考えておいた方がよい」(273)。

「政治が決めることがそれ以外で決まることと違う一番大きなことは、政治には強制があるということだろう。税金は払いたくなくても払うものだ。払わなければ脱税で罰せられる。だから、私たちは政府になにをさせるかを考えるなら、人を強制してでもすべきことはなにかと考えた方がよい」(310)。

山田真さんとの対談の中で、学校における能力主義を問題にしている文脈で。「もうひとつは、「学校は生活の場だ」と言ってしまうこと。一日のうち、起きている時間の半分以上を子どもたちは学校で過ごすわけですから、生活の場だというのは、主義主張じゃなくて事実なんですね。となると、いわゆる勉強のことだけを言っているのはおかしいということになる。暮らしを大切にするというところから〔障害のある子も〕普通学校へ行くというのはもっともな話になります」(363)。

岡崎勝さんとの対談でも同趣旨の発言。「まず言えるのは、僕たちの住む社会では、学校に行ってる時間が妙に長いということです。子どもが起きている時間の半分以上は学校にいるわけですから、いやおうなく学校は生活の場だと僕は考えています。だから、雑多な人がいっしょにいるのがほんとうだと思う。能力によって隔てられてしまう生活の場はいろいろな意味でおかしい、気持ちがわるい。そういう意味で、「障害児を普通学級へ」という主張は、誰がなんと言おうと正しいと思います」(374)

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邑智郡大元神楽保存会編『邑智郡大元神楽』

1982年、邑智郡桜江町教育委員会。大元神楽に関しては、観光資源保護財団編・発行『大元神楽』(1977年)といった報告書もあり、新しい入門書として出雲古代歴史博物館が編集した展覧会の図録などもあるが、本書のほうがずっと記述が厚く、牛尾三千夫『神楽と神がかり』と並んで、第一の基本文献といえそうだ。・・・・・・なんて、詳しい方に教えていただいたんですけども。

序文 桜江町教育委員会教育長 原田静雄
はじめに 牛尾三千夫
大元神楽の性格とその変遷 山路興造
大元神楽式について 牛尾三千夫
舞方・囃子方 竹内幸夫
綱貫きについて 三浦賢斉・竹内幸夫
神がかりと託宣 牛尾三千夫
大元神楽現地公開見学記 岩田勝
資料

1981年3月に重要無形民俗文化財の指定をうけて行った小田八幡宮における大元神楽の公開催行の様子が記述されているが、参観者のなかには萩原龍夫、樋口昭、鈴木正崇、神田より子といった各氏の名前がみえる。公開催行だから生じないとおもっていた「託太夫」への神かがりの様子が凄い。

先日2024年11月16~17日には、故・牛尾三千夫氏の本拠である市山の飯尾山八幡宮で6年に1度の大元神楽が実施されている。式年で行われる各地の大元神楽はかなりコロナの影響を受けたといい、出雲地方でも33年に1度実施され、神がかりのある東忌部熊山の荒神神楽が、2021年に延期されている。だが、この市山の大元神楽はちょうどコロナの時期を避けられた格好となった。

自分だって外部の人間なので偉そうなことをいう権利はないが、でもやっぱり気になったのはスマホの動画撮影で、禁じられてはいないのだけど、神事の雰囲気を壊していることはたしか。ふつうの奉納神楽ではなく大元神楽なのだし。しつこく撮影しているのは、ほとんど、もしかしたらみんな、外部の人。いかにも都会の人だったりする。せめてスマホのディスプレイを消灯するようなことはできないものか。わざわざ江津にまで来ているくらいだから、たしかに「理解者」の側ではあるのだろうけど、こうして神事は壊れていくのだろうか。変質ですめばいいのだが。

[J0536/241120]