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洲之内徹『気まぐれ美術館』

新潮社、1978年。大昔に一度読んだことがあると思うのだが、今度も妙な、とりとめのない読後感。仙台在住だった頃、宮城県美術館で洲之内コレクションになじんでいたことや、本書に酒田の話がちょこちょこ出てきたりしたりで、東北の雰囲気と、東京の景観と、それに松山の様子と、それも時代は戦争の色が濃く残る頃であったり、そのなかにモダンで清新な感触であったり、そんなタッチがないまぜになった、そういえば洲之内コレクション自体がそういう印象だものな。

1. 横雲橋の上の雲
2. エノケンさんにあげようと思った絵
3. 雪の降る町
4. 四畳半のみ仏たち
5. 井上肇氏の「軍服」で考える
6. 吉岡憲「笛吹き」の顛末
7. 正体不明
8. まぼろしの名作二件
9. 土井虎賀壽-素描と放浪と狂気と
10 .杉本鷹の日記帖から
11. 山荘記
12. 続 山荘記
13. 続 続 山荘記
14. 絵を洗う
15. 靉光の死を見届けた人
16. 短い鉛筆
17. 小田原と真鶴の間
18. ある青春伝説
19. 蛇と鳩
20. 大江山遠望
21. 松本竣介の風景(一)
22. 松本竣介の風景(二)
23. 松本竣介の風景(三)
24. 松本竣介の風景(四)
25. 京都
26. 美しきもの見し人は
27. コモちゃんの食卓
28. 桜について
29. 深川東大工町
30. 続 深川東大工町
31. 小野幸吉と高間筆子
32. もうひとりの鮭の画家
33. くるきち物語
あとがき、ということではなく

「土井虎賀壽」のところに付箋を貼ってあるのだが、自分がどうして貼ったか分からない。「絵を洗う」には、単純におもしろかったからだろう。田畑あきら子という夭逝した画家・詩人について書いた「美しきものを見し人は」もそうだろう。

とくに大きな意味はないが、抜き書きをひとつ。
「私が、くには松山だと言うと、よく人は、松山は気候はいいし、景色はいいし、暮らし易いし、いい処ですねえと言う。ところが、松山で生まれ育って、長年松山で暮らした私などからすると、その、松山のいいというところがちっともよくないのである。例えば、松山の景色がいいというのは瀬戸内海のことなんか言うらしいが、あの、穏かな海のあちこちに程よく島々が配置された、こぢんまりとよく纏った風景を見ると、私はいつも、こんな景色を朝晩眺め暮らして、人間に大きな空想力なんか育つわけがないじゃないかと、なんだか絶望的な気分になってしまう。」(157)
「もっとやりきれないのは松山の日常を包んでいる、眼には見えないあるもので、寺山氏の言う「明日はどんなやつに会うだろうか」というような期待は、あそこでは持ちようがない。明日も明後日も、会うかもしれない人間はきまっているし、相手の素性も癖も性格も判っていて、その相手と飲みに行けば、マダムが子持ちで、その子供が誰の子だというようなことまでみんな判っている。いつ、どこで、どんなエライやつと知らずに顔を突き合わせていたり、隣りあって坐っているかもしれないという不安や緊張はない。気を遣わずにすんでいいようなものだが、しかし、そういう思いをせずに済むということは、よく知っているその相手も含めて、人間一般に対する感覚を鈍らせるということになるのではあるまいか」(158)。

なんにせよ、これだけ自分の感性だけを頼りに生きられたら、いいだよなあ。

[J0569/250303]

エイドリアン・オーウェン『生存する意識』

副題「植物状態の患者と対話する」、柴田裕之訳、みすず書房、2018年。
もちろん、意識の科学の話としておもしろい本だが、推理小説的な読み物としてのおもしろさもたっぷりなので、読む予定の人は、「ネタバレあり」の以下感想はご覧にならない方が吉。

プロローグ
第一章 私につきまとう亡霊
第二章 ファーストコンタクト
第三章 ユニット
第四章 最小意識状態
第五章 意識の土台
第六章 言語と意識
第七章 意志と意識
第八章 テニスをしませんか?
第九章 イエスですか、ノーですか?
第一〇章 痛みがありますか?
第一一章 生命維持装置をめぐる煩悶
第一二章 ヒッチコック劇場
第一三章 死からの生還
第一四章 故郷に連れてかえって
第一五章 心を読む
エピローグ
日本語版のための追記――原著執筆後の進展

脳科学研究者の著者は、脳の活動のスキャン技術の向上を背景に、これまで植物状態とされてきた人の多くに、実は意識があったという事実を明らかにしていく。それは、生と死のはざまにある「グレイゾーン」の探究でもある。

「患者たちは植物状態のたぐいのカテゴリーに一まとめに分類されるので、みな何かとてもよく似ているという誤解を生むが、現実には、患者は一人ひとり完全に異なる」(63)。

興味深い事実のひとつとして、植物状態にあるとされている人でも、家族だけにはその人が意識を有していることが分かるケースがあることだ。それは、長年その患者を詳細に観察している医師でも分からないケースでも起こっている。そして、そうした家族がどうして意識の存在を感得できているのかは、本書の最後まで謎とされている。

それから、生活の質の問題。
「〔スティーヴン・〕ローリーズのチームは、閉じ込め症候群の患者(意識はあるものの、瞬きすること、あるいは目を縦に動かすことでしか意思を疎通できない人々)91人を調査した。彼らは患者に病歴や現在の状態、人生の終え方に対する態度についての質問表に答えてもらった。・・・・・・・ほとんどの人が立てるだろう予想とは裏腹に、患者のかなりの割合(回答した人の72パーセント)が、幸せだと答えた。そのうえ、閉じ込め症候群になってからの時間が長いほど、報告される幸福度も高かった!」(204)。安楽死を望んでいると表明した人は、7%だという。論文名は、”A Survey on Self-Assessed Well-Being in a Cohort of Chronic Locked-In Syndrome Patients,” British Medical Journal Open, 2011.

推理小説的なおもしろさといったのは、身体的反応のない患者の意識を探る具体的な手段を編み出すところだ。たとえば、患者のYes/No の意思を確かめるのに、それを直接には感じとることはできないので、「Yes であればテニスをしているところを想像してください」と指示する方法をつくっている。そのときには、脳の特定の一部が活性化することが確かめられるからだ。それもテニスであることに意味があり、想像上で動かす身体の箇所がだいたい同じだからだという。

さらに別の方法として編み出されたのが、ヒッチコックの映画『バアン!もう死んだ』を見せるという方法。この映画は観客に同一の強い感情反応をよびおこすシナリオや演出になっており、これを見せたときの脳の反応で、健常な人の思考と同じ思考をもっていることが確かめられるのだと。また、高度な推測や推論をもとに特定の感情が喚起される場面も含まれている。

これらの実験結果から、これまで植物状態とされてきた人の少なくとも15~20%は、実は完全なる意識をもっていると推測されるという。しかし、奇跡的に回復した人が、完全な植物状態でMRIを受けたときのはっきりした記憶を持っていた事例も紹介されており、残りの80~85%のなかにもなお意識のある人がいることが示唆されている。

著者は「意識は、互いに向かって発火するニューロン間の結合に還元できると私は確信している」と述べているが、ここで紹介されている実験結果から分かることは、少なくとも現時点の技術で追跡しうる脳神経の活動の有無と、意識の有無とは完全には一致していないということである。

こちら、イギリスBBCのドキュメンタリー「マインド・リーダー」(2012年)。アップしているのは本書著者のようだから、著作権もだいじょうぶそう。

こちらは、エイドリアン・オーウェンのウィキペディア・ページ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Adrian_Owen

[J0568/250227]

佐久間亜紀『教員不足』

副題「誰が子どもを支えるのか」、岩波新書、2024年。この新書は、いま社会に必要とされている仕事。たいへんしっかりした内容の労作で、ありがたい。

第1章 教員不足をどうみるか―文科省調査からはみえないもの
第2章 誰にとっての教員不足か―教員数を決める仕組み
第3章 教員不足の実態―独自調査のデータから
第4章 なぜ教員不足になったのか(1)―行財政改革の帰結
第5章 なぜ教員不足になったのか(2)―教育改革の帰結
第6章 教員不足をどうするか―子どもたちの未来のために
第7章 教員不足大国アメリカ―日本の未来像を考える
第8章 誰が子どもを支えるのか―八つの論点

まずは、教員配置の複雑なしくみを説明。現在の教員不足をもたらした諸要因の説明を読んで、思い浮かぶ感想は、ここ四半世紀の教育政策が愚かすぎるということ。逆に、それまでの戦後日本の教育政策にかんして感じるのは、個々の家庭や地域の事情の格差を埋めるべく、相当理想主義的に進められてきた印象だが、それが現実的にも良い結果をもたらしてきたのだな、ということ。理想論を否定し、表層的な「現実主義」で押しとおして、「現実」にもマイナスの結果にしかならないのでは本当にしょうもない。

じつは、本書の内容で一番驚愕したのは、アメリカの学校教育の惨状。よくこれで国が成り立つなと思うレベル。教員に対する社会的リスペクトが不足していることが大きく影響するとともに、社会的分断が教育現場に持ちこまれて、むしろ学校こそがその分断の最前線になってしまっているのだという。安い労働力を求めた結果としての教職の女性化も、長くアメリカの教育の特徴であるらしい。ただし日本の教職員数は、OECDでもっとも低く、そのアメリカの教職員の六割ほどしかないとのこと。

[J0567/250227]