Author: Ryosuke

麻田雅文『日ソ戦争』

副題「帝国日本最後の戦い」、中公新書、2024年。日ソ戦争という、なかなか日の当たらない歴史。この本は売れているらしいけれども、内容は派手ではなく、どちらかというと地味。そういう歴史書が売れているというのだから、まだ日本には希望があるじゃないですか。

第1章 開戦までの国家戦略―日米ソの角逐
第2章 満洲の蹂躙、関東軍の壊滅
第3章 南樺太と千島列島への侵攻
第4章 日本の復讐を恐れたスターリン

1945年夏、日本の大本営は、ソ連が英米との交渉にあたる可能性を期待して、ソ連参戦の可能性を黙殺することになったらしい。アメリカはアメリカで、原爆と並んで、ソ連が対日戦争に参戦することを終戦に導く手段と考えていたとのこと。スターリンはそこをもったいぶる。

南樺太での戦いから。「満洲や朝鮮と違って、住民の大多数を日本人が占め、社会の隅々まで防衛体制に組み込まれていた南樺太では、開戦に伴い強う不安と緊張に襲われる。すると、噂が噂を呼び、疑心暗鬼が生まれた。疑いの目は朝鮮人に向けられる。南樺太では、炭鉱などさまざまな現場で約二万人の朝鮮人が働いていた。多くの場合、朝鮮人のなかにスパイがいるという噂から、上敷香や南部の瑞穂(現・パジャルスキー)で日本人住民や警察の手で朝鮮人が殺された」(184-185)。

1945年8月16日付のトルーマン宛のメッセージで、スターリンは「満洲・北緯38度線以北の朝鮮・サハリン」、「全クリル島」に加えて、北海道の北半分を要求している(221)。「北海道の北半分と南半分の境界線は、島の東岸の釧路市から西岸の留萌までを通る線とする。なお、この両市は島の北半分に含む」。ポツダム以降の動きから、ソ連に不信感をもっていたトルーマンはこれを拒絶。

スターリンは北海道占領の準備をしていたが、上陸作戦を断念。その理由は明らかではなく、(1)南樺太や千島列島での日本軍の奮戦のため、(2)朝鮮北部と千島列島の占領をアメリカが認めたことに満足したため、(3)アメリカとの関係悪化を恐れたため、といった説があるとのこと(226)。

一連の戦争による日本側の死傷者の数は不明。悲惨なのは、死の事実があいまいなまま、知られぬままになってしまうことである。戦死者8万人はソ連側の発表にすぎず、確実なのは3万人を超えるというところまでらしい。日本側の民間人は24万5000人が命を落としたと。「日ソ戦争にかかわる死者のほとんどの遺骨は収集できていない。日ソ戦争の古戦場を、冷戦下では日本人は訪れることすらできなかった。そうしたなか、埋葬地の情報は現地でも忘れられていった。現在も遺骨の収集作業が難しい地域がほとんどである」(238)。

それから、シベリア抑留。もともと、スターリンは降伏させた敵軍の将校に容赦がなかったが、日本軍の復讐を恐れた心理もあったらしい。一方で、日露戦争時にロシア人捕虜を厚遇していたので、個別には、その恩義をちょっとした親切で返してくれた場面もあったとはいう。

[J0558/250207]

樫村賢二『里海と弓浜半島の暮らし』

副題「中海における肥料藻と採集用具」、鳥取県史ブックレット9、鳥取県江文書館県史編さん室編、鳥取県発行、2011年。『江戸時代の鳥取と朝鮮』もそうだったが、この冊子もレベル高いなあ。

かつて「飲みたくなるほど透き通っていた」という中海は、弓浜半島の人びとにとって「里海」であった。とくに藻の採集を中心に、その「里海」の利用方法を探り紹介した一冊。自然科学的な見地をとりいれながら生活民俗が解説されているところも楽しい。

はじめに―民具からみる地域の暮らし―
1 鳥取県における里海:里海という視点/弓浜半島の特殊な環境
2 里海に注目した経緯:伯州綿とその栽培用具/日吉津村の綿栽培用具/綿まき鍬/伯耆地方にない「穴つき」/里海が支えた綿栽培
3 里海と地域の暮らし:米子市彦名町の事例/藻葉採りと入会権/舟入とフナミチホリ/舟入と龍宮さん/中海での漁業/藻葉の採集地
4 藻葉の種類と利用:総称としての藻葉/オゴノリ/ボウアオノリ/ウミトラノオ/アマモ/コアマモ/季節と藻葉/藻葉利用における塩害対策
5 藻葉採集用具:藻葉採りとその用具/藻葉ケタ/ケタによるアマモの採集法/ケタによるオゴノリの採集法/サオ(ネジリザオ・ハサンバ)/サオの使用方法/カギ/カイノコトリ/モバトリグワ/カマ/舟
6 藻葉採りの終焉と復活:藻葉の減少/農業・生活形態の変化と藻葉/中海干拓事業の経緯/里海再生と再利用
おわりに―暮らしの物的証拠としての民具―

藻を肥料にすること。弓浜半島は、1759年に完成した米川用水の整備以降、有数の綿作地帯となる。その競争力を支えたのは、油粕や干鰯よりもずっと安価であった藻葉(もば)で、多くは隠岐産のものであるが、中海でも藻葉を採集することができた。

弓浜半島は湾口砂州であり、島根県側の大根島も山野がほとんどないため、山林原野から肥料を採ることができないかわりに、中海の藻葉の採集が入会権となっていた。

中海の漁業としては、戦中・終戦直後はサヨリの延縄漁が盛んであったという。そのほか、特産のアオデ(タイワンガザミ)を籠漁で、エビ(ヨシエエビ)を漬漁で獲ったり、とくに大根島では、赤貝をソリコ舟でケタ(引網)を使って獲っていたという。

内水面は、また陸とは異なる地理感覚だなあとおもうのは、中海の藻葉だけで足りないときは、弓浜半島・彦名から中海、大橋川、宍道湖、佐陀川を経由して島根半島に出て、泊まりがけで手結や御津あたりでホンダワラなどを採ったという。採集権関係はどうなっていたか。

採った藻葉の利用について、大根島や安来では塩害を気にして塩抜きをしたりするが、弓浜半島ではあまり気にしていなかったという。砂地だからではないかと、著者は推測している。

米子市彦名では1958年頃には藻葉採りを止め、大根島入江地区では1962年以降、オゴソウ(オゴノリ)が採れなくなったという。1963年に開始された中海干拓事業よりも前から水質悪化が相当進んでいたらしく、それが反対の声を弱める理由にもなったらしい(干拓事業はその後中止)。

化学肥料の普及により、労力のかかる藻葉利用は激減。弓浜半島では綿作自体が激減していたし、やはり藻葉をよく利用した養蚕のための桑畑も減少。桑畑はタバコ畑に変わったが、タバコは塩分に弱いため、藻葉を用いなかったという。

中海干拓事業が2005年に中止されて、いくつかの水門が撤去されると、アサリが増えるなどの効果が出た。ところが、水質悪化で激減していたオゴノリが増えたのはよいのだが、それが過剰に繁殖して堆積、ヘドロ化して水質悪化の原因に。今度はこれを肥料にできないかと、温故知新の取り組みがこの2011年当時、はじめられているとのことである。

[J0557/250130]

三宅紹宣「幕末期長州藩の宗教政策」

副題「長州藩天保改革における「淫祠」解除政策について」、河合正治編『瀬戸内海地域の宗教と文化』雄山閣、1976年、225~258頁。

はじめに
1 「淫祠」解除政策の展開
2 「淫祠」解除政策の歴史的諸前提
3 「淫祠」解除政策の歴史的意義

長州藩では、天保改革の一環として、藩主毛利敬親のもと、村田清風の「淫祠之詮議」プランの提出を皮切りに、1838年(天保9)より「淫祠」解除政策が実施された。解除とは、(おそらく三宅の表現で)廃するということである。

「「淫祠」解除政策は、藩の御根帳に登録されていない寺社堂庵、小祠・小庵・石体・金仏=「支配体制秩序外信仰」対象を解除し、一方で、御根帳入寺社堂庵=「支配体制秩序内信仰」対象を再編成し、そのことによって、民衆の宗教活動を統制し、藩の支配体制秩序の強化を意図するものであった。その具体的展開は、藩の寺社所によって行なわれ、村落においては、村役人層が解除の実務を担当した。「淫祠」解除政策に対して、民衆はその政策を容易に受入れず、存続嘆願を行ない、あるいは不穏な状況を現出せしめて、政策進捗を遅延させた。そして、「淫祠」解除後も不穏な状況を現出せしめて藩側に一定の譲歩を強い、あるいは統制の網の目をくぐって「淫祠」再建を行なった。」(252)

1843年(天保14)7月の中間報告では、「御根帳入寺社堂庵」は3376で、「詮議半途社堂庵」が802、「解除済寺社堂庵」が9194、「詮議半途石体金仏」が9169となっている。これを単純計算すれば、13372カ所あった寺社堂庵のうち、69%がこの5年間で廃されたことになる。翌1844年(弘化元)1月になると、「解除済寺社堂庵」は9666、「解除済石体金仏」は12510となっている。

帳簿「御根帳」に記載されていない「淫祠」の存続を人びとが強く申し出た場合、帳簿に記載されていて信仰が薄れている寺社から「引寺」・「引寺」をして名義を移すことで許可をする場合もあったとのこと。こうして、藩は人心と妥協をしつつ、帳簿を介した管理をすることができたと。こうした藩の統制は、基本的に、明治維新まで続く。

「天保期における長州藩民衆は、天保二年一揆にみられるごとく、藩体制を動揺させていた。その場合、呪術信仰の問題は、民衆が一揆に蜂起する過程において、また一方で、藩あるいは村役人層が一揆を鎮静させる過程において重要な機能を果たした。したがって、藩は、一揆において打毀を受けたという性格を持つ村役人層との共生関係において宗教統制を行なわなければならない課題に直面していた。」(252)

「皮騒動」にみられるように、呪術信仰が一揆のきっかけともなった。おもしろいのは、「一揆を鎮静させるのに殿様祭の執行ということが、一定の役割を果たしていることが注目される」という指摘(250)。「藩側の一定の妥協によって要求が受理され(要求の受理は一時的なものであり、後にそのほとんどが反古にされるが)、あるいは御恵米が下付されて、それを感謝した民衆によって殿様祭り〔*ママ〕が行なわれ、一揆が鎮静してしまうのである。この殿様祭は、日常的年中行事の中で行なわれる場合においては、村役人層の主導において行なわれるものであるから、以上、殿様祭の挙行も村役人層の工作において行なわれたものと推定される」(250-251)

「淫祠」解除の話もおもしろいが、この殿様祭の話もおもしろい。信仰をもって信仰を制するというか。日本における政治責任追及の一パターンとして、天皇制と戦争責任の話にも通じるところがありそうだ。

国立国会図書館デジタルコレクション
>河合正治編『瀬戸内海地域の宗教と文化』雄山閣、1976年.https://dl.ndl.go.jp/pid/12286693/1/116
>〔関連資料〕沖本常吉編『幕末淫祀論叢』マツノ書店、1978年.https://dl.ndl.go.jp/pid/12261045
[J0556/250126]