Author: Ryosuke

E・O・ウィルソン『人類はどこから来て、どこへ行くのか』

エドワード・O・ウィルソン、斎藤隆央訳、ちくま学芸文庫、2025年。原著は The Social Conquest of Earth, 2012で、邦訳単行本は 2013年刊、文庫化にあたって一部図版が割愛されているらしい。ていうかじつは、単行本の方は積ん読の山のなかで遭難したままなんだよなあ。

真社会性の獲得という画期。
ひとつの条件としての、サイズ。昆虫は外骨格のため、哺乳類ほど大きく成長できない。そうすると、火を使いこなすことができない。

ヒトの進化の前適応。一、陸上での生活。水中では火は使えない。二、身体の大型化。三、物をつかむ手。

真社会性を発達させるまでの選択過程の問題。
利己的遺伝子のアプローチと結びついた血縁選択の過程にもとづく包括適応度の一般理論は、ウィルソンはこれを破綻したものとして否定する(本書ではあちこちで論じられている)。利己的行動と利他的行動のあいだで、「人間社会では、個体レベルの自然選択とグループレベルの自然選択のあいだで、本来的に解消できない争いがある」(76)。「したがって、現生人類の社会的行動を規定する遺伝コードがいわばキメラとなることは避けられない」(77)。この論点は、24章でまた主題として論じられる。「「真社会性」が、生命史上まれにしか誕生していないのは、個体選択の力を弱めるために、グループ選択がことのほか強く働く必要があるからだ」(77)。

世界に支配的な位置を占めるアリ。大きなイノベーション、植物の液汁を主食とする昆虫との提携関係を結んだこと。食糧を提供してくれるそうした昆虫を彼らの「乳牛」とした。ウィルソンが気づいた原理、「巣が労力と時間をかけて複雑でコストの高いものになるほど、それを守るアリの獰猛さは増す」(169)。

真社会性の新理論。「高度な社会的行動をもたらす要因は、防御可能な巣、とくに作るのにコストがかかり、持続可能な食料源の近くにあるような巣を持つという利点だ」(239-240)。「真社会性の第二の段階は、真社会性への変化をいっそう起こしやすくする他の形質が偶然蓄積するというものだ。なにより重要なのは、巣のなかで育つ子を熱心に世話することである」(240)。第三の段階は「真社会性の対立遺伝子の誕生だ」(241)。第四の段階、「原始的な社会性をもつハナバチや狩りバチの家族のように、親とそれに服従する子が巣にとどまると、コロニーのメンバー間の相互作用によって新たに生じる形質のみを対象とするグループ選択が進む」(241)。「最後に第五の段階では、(コロニー間の)グループ選択が、さらに高度な真社会性の種のライフサイクルや階級システムを形成する。その結果、多くの進化の系統は、きわめて特殊化した複雑な社会システムを進化させた。そんなシステムの極地は、ヒトではなく昆虫・・・・・・でみつかっている」(243)。

真社会性の進化にかんする理論を構成する段階(243-)。
(一)グループが形成される。
(二)グループ内に前適応の形質が必要最小限の組み合わせで生じ、堅固なグループを形成させる。
(三)グループの持続のうながす変異が、たいていは移動分散する行動をさせなくすることによって現れる。
(四)昆虫の場合、ロボットのようなワーカーの誕生やグループのメンバー間の相互作用によって生じる新たな形質が、環境の力でうながされるグループレベルの選択をもとに形成される。
(五)グループレベルの選択が、昆虫のコロニーのライフサイクルと社会構造に、えてして異様に極端なまでの変化をもたらし、複雑な超個体を生み出す。
 ただし、最後のふたつの段階は昆虫など無脊椎動物でした起きない。したがって、ヒトがどうやって独自の社会的条件を形成したのかはまた次の問いとなる。

チンパンジーと二歳半の幼児とで知能検査をすると、物理や空間把握の能力は同等だが、「社会性を調べる各種のテストでは、幼児のほうがチンパンジーよりはるかに高い能力を示した」(293)。「どうやら人類が成功を収めたのは、あらゆる課題に取り組む一般知能が高いためではなく、生まれつき社会的なスキルに長けているからのようだ。コミュニケーションを図ったり意図を読んだりして協力することによって、集団は単独の人間で取り組むよりはるかに多くのことをなし遂げるのである」(294)。

「善と悪のジレンマは、マルチレベルの選択によって生み出されたものだ。この選択では、個体選択とグループ選択が、同じ個人に対して一緒に働くが、互いにほぼ反対方向に働く。個体選択は、同じグループのメンバー間での生存競争や繁殖競争がもたらす現象であり、各メンバーに、他者に対して基本的に利己的となるような本能を身につけさせる。これに対しグループ選択は、環境を利用する際に直接対立したり能力差があったりすることによって、社会間に生じる競争で成り立っている。グループ選択はまた、個人を互いに利他的になりやすくする[中略]ような本能を生み出す。個体選択は罪と呼ばれるものの多くをもたらす一方、グループ選択は美徳の大半をもたらすのだ」(313-314)。

宗教の話。じつは本書は、冒頭から、宗教の創世神話を科学的探究と対置させて否定することからはじまっている。第8章では、各宗教伝統と戦争との関連についても論じている。

第25章は「宗教の起源」。やはりまず、宗教と科学を対置させる。宗教の神話的世界観を科学的知見から否定しつつ、「組織化された宗教は同族意識の表れだ」(338)・「宗教の目標は、その同族の意志や共通の利益となるものに従わせることなのである」(339)と述べる。「宗教の非論理性は、弱みではなく本質的な強みだ。特異な創世神話を受け入れることが、信者同士を結びつける」(339)。さらには、創世神話の生成に、夢や特異な精神状態、幻覚剤の役割を強調する。第27章も参照のこと。「組織化された宗教やその神々は、現実世界の大半を知らぬままに考え出されたのに、あいにくまだ歴史の浅いうちに確定されてしまった。当初と同じく、いまだにどこでも同族意識が表れたものにほかならない」(380)。

留保つきの部分ではあるが、「宗教的信仰は、人類の生物学的歴史のなかで避けられなかった見えざる罠と解釈するほうがいい。そしてこれが正しければ、服従や隷属をしなくても精神的な充足を得る方法がきっとあるはずだ。人類には、もっとよい待遇がふさわしい」と述べている(149)。つまり、宗教を服従や隷属と同一視しており、服従や隷属のない宗教はないこと、ありえないことが暗黙裏に前提されている。

宗教に反対する理由、「神話や神々が人を愚かに見せ、不和をもたらすからだ。また、どれも、真実かもしれない競合する多くのシナリオのひとつを言い換えたものにすぎないためでもある。それらは無知を助長し、現実世界の問題に気づかないように人々の注意をそらせ、しばしば人間を誤った方向へ導いて破滅的な行動をもたらすからという理由もある」(381)。

メモがてら、批判を試みる。宗教が不和の生成や無知の助長をすることがあるとしても、それだけが宗教がもたらす結果でもない。不和や無知の助長は当然批判するとしても、それを宗教自体への批判と重ねあわせることは論理的な手順か。宗教が集団結束の機能をもつとして、あるいはそれが進化上コアな機能だったとして、現在現実に宗教がもつ機能は集団結束のそれにはかぎられない。たとえば生物のある器官が、進化当初の機能から離れて、多様なあるいは派生的な機能をもつようになる現象は山ほどある。単純なことだが、宗教を批判するのは良いが、より論点を整理した上で批判を展開する必要があるのではないか。それにしても、デュルケーム的宗教理解の応用という問題は、ちょっと大事そうである。

さらに本書で展開されている大きな論点として、人文学との関係性のことがある。人文学の研究諸対象について、「それらをひとまとめにする認知プロセスの理解にも、それらと人間の遺伝的な本性との関係にも、先史時代におけるそれらの起源にも触れていない。こうした面が加わるまでは、人文学が十分な成熟を見ることはあるまい」(356)。全能感が凄い。

数理生物学者とのことだが、巌佐庸さんという方が解説を付しておられる。本書でウィルソンが強調している血縁淘汰否定論は、「人を惑わす言説といえる」(401)のだそうだ。もしそうだとすると、本書のうち結構な分量が否定されるな。

さて本書全体を一読したかぎりでの要約というか、全体メモ。ウィルソンは、生物の進化過程において真社会性の発達を重要なエポックとみなす立場から、真社会性を高度に発達させたアリやハチに注目し、それを人類進化の秘密を明らかにするための鍵でありヒントとみなす。以上の点については僕も異存はない。他方、アリやハチの進化は、人類の進化を語る試みにとってたしかに大きなヒントになるものではあるが、後者を語るにはまだまだ多くの過程の記述の必要そうだという感触がある。だから、人間の文化や宗教の原理を知った顔で語るには、まだ時期尚早ではないかという感想。アリやハチと、人間とを同列において語る進化論的探究の試みをはじめたパイオニアとしての貢献は大きいのだろうし、その方向自体はまちがっていない。しかし、シンプルな事実の問題として、アリやハチの進化と、ヒトの進化とのあいだには、まだ十分に把握されていない大きな条件のちがいがあるようにおもわれる。

人文学の徒として、進化論のベースの上で、アリやハチと、ヒトとを比べようとする試みが不適切だと言いたいわけではない。進化論の議論として、不備なのだと言っている。両者の条件のちがいに関する認識が不足しており、研究の進度という意味で、時期尚早だと言っている。おそらく、ヒトの進化を対象にすると、生物学という現在の範疇自体を拡大する必要性が出てくるものとおもわれる。ウィルソンのいう社会生物学でもまだ狭い。

[J0629/260103]

松前健『出雲神話』

講談社学術文庫、2024年、原著は1976年の講談社現代新書。解説で述べられているとおり、出雲神話研究は、1980年荒神谷遺跡、1996年加茂岩倉遺跡、2000年出雲大社地下の巨大杉柱発掘によって大転換しており、本書は「それ以前」の研究に属する。

1 出雲神話の謎
2 二つの出雲神話
3 出雲国造家の台頭と自家の売りこみ
4 スサノオの神話
5 オオナムチの神話
6 国譲り神話と諸氏族
7 出雲土着の神々
解説 三浦佑之

「出雲は、けっして畿内、大和より古い文化の母胎でもなければ、大和朝廷の成立以前に栄えていた「出雲朝廷」の根拠地でもなかった。七、八世紀のころ、医療・禁厭の法や託宣などを、各地に持ち伝えたシャマニズム風の民間宗教の、いわば本源地・中心地であって、出雲大社はその総本山・総本社というべきものであったのであろう」(48)。という、「出雲信仰は新興宗教」説。

本書のまとめは191~194頁にまとめられている。「出雲神話には虚像と実像とがある」というのは、当たり前といえば当たり前。ここでも解説が述べているとおり、記紀・風土記以前、弥生時代にさかのぼる遺跡群に確かめられる出雲文化の存在をどのように説明するかが本書には欠けていて、たんに素朴な伝承の世界とだけ位置づけられている。もっとも、そうした原・出雲神話の実在すら認めない論者もかつてはいたわけで、その点が当時における本書の特色ではある。

本書をみると、神話研究としてはやはり、記紀・風土記の記載事項から、大和朝廷側の要素と出雲地域側の要素とを選りわけるという作業になってくるが、それはなかなか難しいという印象。出雲神話「以前」に関心が集中しがちだが、根拠のある歴史を組みたてようとするなら、もっと「以後」のところをたどることも大事と思う。

[J0628/260102]

秋元松代『氷の階段』

朝日新聞社、1979年。劇作家である著者のエッセイ集。

「伝説と創作」は、土佐の「七人みさき」の風習に出会ったときの話。著者はのち、これを題材にとった戯曲を書いている。

「氷の階段」は立石寺訪問記で、ムカサリ絵馬という名称は用いていないが、婚礼を描いた絵馬のことに触れている。

国立国会図書館デジタルコレクション(個人送信サービス)
> 秋元松代『氷の階段』
> 秋元松代『七人みさき』

[J0627/251219]