Author: Ryosuke

『江戸時代の鳥取と朝鮮』

鳥取県立公文書館県史編さん室編、鳥取県史ブックレット5、鳥取県発行、2010年。実質的な著者は、編さん室の坂本敬司という方の模様。

1 朝鮮に出自を持つ鳥取町人
  「鎖国」以前の日本/海老屋の松/竹野屋が松/柳御蔵の柳
2 米子の大谷・村川家の竹島(欝陵島)渡海
  従来の通説/「竹島渡海免許」の年代/「竹島渡海免許」の背景/鳥取藩の保護と支援/松島(竹島)への渡海
3 竹島(欝陵島)渡海と朝鮮への漂着
  竹島(欝陵島)渡海の実態/2つの漂流/竹島(欝陵島)に渡った人々/鳥取藩領から朝鮮への漂着
4 元禄竹島一件(1)1693年
  元禄竹島一件とは/1692(元禄5)年の渡海/1693(元禄6)年の渡海/安龍福と朴於屯/幕府と対馬藩の対応/竹島(欝陵島)渡海禁止の決定
5 元禄竹島一件(2)1696年
  安龍福二度目の来日/鳥取での安龍福/鳥取藩の対応の理由/安龍福の来航目的/帰国後の安龍福/「元禄竹島一件」と竹島問題
6 鳥取藩と朝鮮通信使
  江戸日本の誠信外交/鳥取藩の道中人馬役/1764(明和元)年の人馬役/使者小川利兵衛の苦労/朝鮮国王へ贈る刀を打った鳥取の刀工/通信使を見た百姓・町人
7 朝鮮からの漂流民(1)1767年、汗入郡上万村
   鳥取藩領への漂流・漂着/上万村への漂着/4人は慶尚道長鬐出身の漁民/上万村での漂流民/対馬藩からの情報と幕府への届け出/漂流民、鳥取城下へ/漂流民、長崎へ
8 朝鮮からの漂流民(2)1819年、八橋郡赤崎沖
  友好交流の象徴/12人の漂流民/漂着から帰国までの経緯/交流を示すもの
9 朝鮮からの漂流民(3)1838年、岩井郡網代村
  慶尚道蔚山の船、網代に漂着/その後の漂流民/網代村善四郎/1862(文久2)年河村郡宇谷村へ漂着した異国船

現在、竹島は島根県の問題とされているけれど、よく引きあいに出される江戸時代の「元禄竹島一件」(こちらは鬱陵島の話)は、鳥取藩での話なのだよね。その様子が歴史学の立場から平易に書かれていて、とても参考になる一冊。その後の経緯は別問題として、「元禄竹島一件」に関して言えば、次のまとめに尽きる。

「「元禄竹島一件」は竹島(鬱陵島)をめぐる問題であり、現在竹島問題の対象となっている松島(竹島)について、日本と朝鮮の間で協議された形跡は見られない。また、前近代には、明確に線引きされた現在のような国境の概念はなかったと思われ、近代以降の国境概念で前近代を推し量るのは、誤った理解を招く恐れがある。「元禄竹島一件」を安易に竹島問題と絡めて議論するのは慎重でなければならない。」(47-48)

現在、竹島問題の「当事者」は島根県とされているから、鳥取県の側であまり先走ったことは言えないという配慮はあるかもしれない。しかし、安易なナショナリズムに走ることなく歴史研究の知見を尊重したこのような冊子を、鳥取県として公的に発行していることには価値がある。

[J0555/250125]

板橋春夫『出産』

副題「産育習俗の歴史と伝承「男性産婆」」、社会評論社、2009年。2012年に増補改訂版が出ていたのか、それはしまった。そちらの方は論文「近代出産文化史の中の男性産婆」が追加されているとのこと。

本書は、著者による「叢書いのちの民俗学」の第一巻となっている。第二巻は『長寿:団子・赤飯・長寿銭/あやかりの習俗』、第三巻は『生死:看取りと臨終の民俗/ゆらぐ伝統的生命観』。

第1部 出産儀礼
 いのちの民俗学:新しい生命過程論の模索
 通過儀礼の新視角
 出産から学ぶ民俗
第2部 産育の歴史
 いのちと出産の近世:取揚婆、腰抱きの存在と夜詰の慣行
 トリアゲバアサンから助産師へ
第3部 伝承・男性産婆
 トリアゲジサの伝承
 赤子を取り上げた男たち:群馬県における男性産婆の存在形態
 民俗研究と男性産婆
 男性産婆の伝承

なんといっても、男性産婆の話がおもしろい。たんに単発の伝承としてではなく、実在した男性産婆のことを取材しているのも凄いし(肖像写真まで!)、著者が発見と調査を進めていく過程が記されていることにも価値がある。事例研究から進んで、産育をめぐる通念や、羞恥心のあり方までを捉え直すところにまでいたっている。

「私が男性産婆の調査を始めた当初、男性産婆というのはきわめて特殊な事例と認識していたが、事例が蓄積されるにつれ、助産は女性に限るという通念そのものを再検討する必要性も生じてきた」(184)。

[J0554/250125]

野口裕二『増補 アルコホリズムの社会学』

副題「アディクションと近代」、ちくま学芸文庫、2024年、底本は1996年。前半は、日本のセルフヘルプ・グループやアメリカのAAに関する丁寧な解説。第九章以降が、アディクションの近代的性格を論じていて重要。

序 章 アルコホリズムへの社会学的接近
第1章 アルコホリズムとスティグマ
第2章 アルコホリズムの医療化
第3章 家族療法としての断酒会とAA
第4章 セルフヘルプ・グループの機能
第5章 セルフヘルプ・グループの原点:AA
第6章 集団精神療法
第7章 集団精神療法の微視社会学
第8章 地域ケアとネットワーク・セラピー
★第9章 共依存の社会学
★第10章 アディクションと近代
★補論1 アディクションの社会学
補論2 オープンダイアローグとアディクション
★補論3 AAとスピリチュアリティ
あとがき/文庫版あとがき
解説(信田さよ子)

集団精神療法に関して。「治療者は、グループに操作介入する積極的な存在としてではなく、他の参加者と同じ無力な一参加者として、逆説的にグループの存在を前景に立たせる役割を担う。・・・・・・斎藤〔学〕はこれを「治療的無力」と呼び、他者への依存を特徴とするアルコール依存症者の集団精神療法においてとりわけ有効な戦略とみなしている」(117)。

近代社会のシステムと、そこにおける自己のあり方は、それ自体が共依存的である。アディクションの発生基盤はそこにある。もともとアディクションは「もの」に対する症状とされたが、近年はそれが「ひと」に拡張されてきている。「アディクション概念の「もの」から「ひと」への概念的転回」(189)。

ベイトソンはそのシステムから降りようとする。ギデンズは、そうした自己のあり方を洗練させようとする。デュルケームが指摘した「エゴイズム」や「アノミー」も、「終わりのない反復であるという点では、アディクションの一形態と考えることができる」(207)。

「再帰的であれという規範に従えば従うほど、結果として、再帰的でない状態に陥っていく」(210)。「アディクションを回避できていることが、自己の望ましさの証明となる一方で、望ましい自己であろうとする再帰的な努力こそがアディクションの深みへと人々を導く。いま、われわれは、このようなきわどいメカニズムを頼りに自己をかたちづくらねばならない状況におかれている」(211)。

また著者は、AAを支えるカーツの思想に含まれる「スピリチュアリティ」の意義を高く評価している。「「スピリチュアルなもの」を非科学的で非合理的なものとして否定し排除する思想こそがアルコール依存症を生み出している。アルコール依存症は「完全な合理化とコントロールへの欲求」に支配された結果であり、「アルコールへの嗜癖の根は、スピリチュアルなものをまさに誤解し否定したところにある」と〔カーツは〕考えたのである」(223)。このスピリチュアリティの概念が、宗教とも心理とも異なるものとして導入された点に注目している。「「弱さ」と「正直さ」、この二つの要素は人間のスピリチュアルな側面と深く関係しているような気がする」(247)。本書では、スピリチュアリティを合理性としか対置していないが、近代の再帰的自己と関係づけて論じるのもおもしろいのではないか。

信田さよ子さんの解説から。「健康保険証を呈示してから始まる保険診療の一環は、あくまで疾病治療を中心としている。いくら精神科医が「僕は病気扱いしないんです」と言っても、診療報酬が発生している以上それは制度的には「疾病を治療している」ことになる。・・・・・・非医療モデルの援助は、医師以外の職種でしか実現できないとつくづく思わされる」(264)。

[J0553/250124]