光文社新書、2026年。
おもに映画「ゴジラ-1.0」について対談をしている。少なくともNot For Me。
[J0672/260624]
光文社新書、2026年。
おもに映画「ゴジラ-1.0」について対談をしている。少なくともNot For Me。
[J0672/260624]
筑摩選書、2011年。超越論的転回、言語的転回、解釈学的転回、コミュニケーション的転回という四つの転回のもとに整理して、現代思想の流れに明瞭な見通しをつける。アーペルはじめ、あれこれも読まなくてはと思わせられる。
第1章 全体の見取り図
第2章 私たちが直面している問題はどのようなものか
第3章 コミュニケーション的転回の哲学的基礎
第4章 現代思想のコミュニケーション的転回
第5章 コミュニケーション的転回の意義
第6章 現代コミュニケーション論概観
第7章 コミュニケーション的転回の問題点
付録 四つの転回を読むためのブックガイド
基本的に、著者の主張は明快で、主旨には納得ができる。細かい疑問。超越論的転回と言語的転回については、自分もそのように整理してきたし、分かる(ただし、名称は認識論的転回と言語論的転回としてきたが)。残りの解釈学的転回と、コミュニケーション的転回は、ちょっと小刻みすぎないかという疑念。
著者によれば、
超越論的転回:存在・モノ・私 → 認識・モノ・私
言語的転回:認識・モノ・私 → 認識・言葉・私
解釈学的転回: 認識・言葉・私 → 認識・言葉・あなた
コミュニケーション的転回:認識・言葉・あなた → 認識・言葉・みんな
・・・・・・とな。
でも、「言語」に注目する時点でその社会的次元や主体の相対化は含まれているわけで、解釈学的「転回」やコミュニケーション的「転回」と、「転回」というのは良すぎではないか。言語論的転回の「展開」とみなすべきではないかと思う。
また、第六章「現代コミュニケーション論概説」は、コミニュケーション論の諸学説をひろく紹介していてとてもありがたい。が、これがコミュニケーション的転回の成果だとすれば、ちょっと些末かもしれない。巻末のブックガイドも親切。著者の高田さんは、もったいぶって出し惜しみをしない人のようだ。
[J0671/260621]
副題「初期仏典を読みとく」、ちくま新書、2023年。現代の仏教者たちは、現代的な価値観のもとにブッダを解釈し、神格化してきてしまっているのではないかという問題意識から、初期仏典に即してブッダを記述しようとする。ブッダに関する通説を次々に斥けて、すごい勇気と思いながら読んでいたが、「あとがき」をみるとやはり相当に苦労されてきたらしい。聖書学への言及もあるが、教祖の解釈をめぐって、宗教の一般的動態のひとつを描きだしている書でもある。
第1部 ブッダを知る方法
1 ブッダとは何者だったのか
2 初期仏典をどう読むか
第2部 ブッダを疑う
3 ブッダは平和主義者だったのか
4 ブッダは業と輪廻を否定したのか
5 ブッダは階級差別を否定したのか
6 ブッダは男女平等を主張したのか
7 ブッダという男をどう見るか
第3部 ブッダの先駆性
8 仏教誕生の思想背景
9 六師外道とブッダ
10 ブッダの宇宙
11 無我の発見
12 縁起の発見
終章 ブッダという男
「現代の仏教者たちもまた、「歴史のブッダ」を構想しようとするなかで、近現代的な価値観と合致するように、「平和主義者だった」、「業と輪廻を否定した」、「階級差別を否定した」、「男女平等論者だった」と神格化してしまっているのである。ここで我々は、次の事実に気がつく。すなわち、古代から現代にいたるまで、「歴史のブッダ」ではなく、「神話のブッダ」こそが人々から信仰され、歴史に影響を与えてきたということである。・・・・・・逆説的だが、中村元など近現代の一部の研究者が喧伝した〔「迷信」をぬぐいさるなどした〕「歴史のブッダ」は、実は歴史上一度も存在しなかった「神話のブッダ」だったということである」(112)。
「およそ2500年前に生きたブッダという男は、輪廻を当然の前提として受け入れており、この世の貧富や差別、そして理不尽な死の原因は過去世の業(カルマ)であると考えていた。確かにブッダは、当時差別されていた隷民や女性にも出家を認め、彼らにも悟りを得る可能性があると主張した。だが、この主張は、当時のインド思想において決して先駆的なものではなく、類似した考え方がすでに起こっていた」(108-109)。
なお、仏教が説いた出家や悟りの平等は、「俗の側ではなく聖の側での平等」と言うべきものであったという(90)。
さまざまな論者の解釈やその歴史にも触れた「参考文献」も価値が高い。そういえば、親鸞の「現代的解釈」を扱った本を数冊、ずっと積ん読にしているなあ。
[J0670/260608]