副題「仏教と話芸」、岩波新書、1978年。どうも「話芸」とは、著者がつくったことばらしい。熱の入った著者の口調もあって、説教こそ仏教を庶民にまで広げた力であったことに気づかされる。そしてそれが、落語などの大衆文化の源流でもあったと。本書を読むと、浄土真宗のイメージも改まる。
著者は、仏教者の説教が近世になって落語・講壇・浪曲などにもなっていったことについて、仏教のたんなる世俗化ではなく、大衆化であるとして積極的に評価しているようすである。
一 節談説教の型
1 修行の方法
2 型の伝承
3 説教の技巧
二 説教話芸の源流 ― 初期・中古・中世
1 説教の素地
2 説教師匠・講師の活躍
3 安居院流と三井寺派
4 節談説教発展の基礎
5 無住と通俗説教
三 説教と大衆芸能 ― 近世
1 近世初期の説教教化者
2 落語の始祖・安楽庵策伝
3 仏教と落語
4 説教と三遊亭円朝
5 説教と講釈
6 節談説教と説教節
7 祭文・ちょんがれ・浪花節
8 真宗説教
四 埋もれた芸能 ― 近代
1 明治仏教
2 近代の説教者
3 節談説教の衰退 ― むすびにかえて
「説教と落語との密接な関係は、落語の元祖といわれる安楽庵策伝が浄土宗の説教師で、彼の著した『醒睡笑』が後世の落語に強い影響を与えたことでも首肯できる」(6)。
説教と娯楽は平安時代にはすでに結びついていて、山門の座主教円が滑稽説教の名人であったといい、『中右記』あたりにも娯楽性に富んだ説教の様子がうかがえるという(55)。
「中世から近世にかけての説教興隆の基を開いた重要なテキストの一つに源信の『往生要集』があったことを見逃すわけにはいかない」(59)。「浄土宗の開祖法然は、第一に『往生要集』を読んで「往生の業は念仏を本となす」の文に大きな示唆を受け、善導の『観経疏』を精読してはじめて弥陀の本願の深重なるを認識したのであり、まさに『往生要集』は、念仏における行基、空也の先駆者の力よりも遙かに強い原動力を日本浄土教に与えたといえる。その意味で後世の浄土宗や真宗の説教の基は、源信によって開かれていたと見てもよい」(60)。
通常の仏教思想史にみえるものとは異なる人の名前も挙がってくる。
平安末期から鎌倉にかけての説教の巨匠澄憲(1126-1203)とその子の聖覚(せいかく)は、「安居院(あぐい)流」の説教を確立した。それに対して定円は「三井寺派」の説教を立てたが、こちらの流れはのちの説教浄瑠璃のその影響を残している。
「安居院流の卓説した説教が、法然の念仏弘通に大きな役割を演じたことを見逃してはならない。・・・・・・真宗における念仏弘通の系譜の中で、法然と親鸞の間に聖覚を置くことは、きわめて重要である」(73)。
近世について。「近世の日本仏教界における説教を代表するものは真宗であった。それは今日に残存する多数の説教本や古老説教者の伝承によっても明瞭にわかる。不立文字の禅宗には喋々演説の説教は不要であった。むろん禅宗にも天台・真言にも説教はあったが、布教伝道を演説体の説教において最も活動的に行ったのは真宗・浄土宗・日蓮宗であった。日蓮宗は談義がすこぶる盛んで、一代に一万座・二万座という驚異的な説教を行ったものもあるほど激しいものであったが、安居院流や三井寺流の系統を入れず、独自の布教方式を展開した。その点、安居院流の系を引く浄土宗や真宗の説教とは異質のものであった。近世の初期には浄土宗に良定袋中(鎮西派)、安楽庵策伝(西山派)、禅宗に鈴木正三、真宗に浅井了意などというスケールの大きい説教教化者が出たが、彼らはいずれも宗門よりもむしろ国文学史上でその名を知られている」(90)。
「『醒睡笑』は説話文学の系列の上では、歌物語―諺物語―狂歌咄―落とし咄という系譜の中にあらわれるが、説教本の系列の上でも『沙石集』などとともに重い位置を占めている」(103)。「説教の系列の方から落語の成立を考える場合、説教者(僧侶)をもって第一義的使命を担っていた安楽庵策伝が安居院の聖覚に発する「説法義」系の説教技術を会得し、さらに浄土宗西山流の「マンダラ絵解き」を相承してその道の宗匠と仰がれていたこと、多年の雄弁術の研究と高座体験によってユニークな話芸を創造していたことは注意しなければならない」(104)。
古典落語にも仏教が入りこんでいるのも当然だといい、上方落語には浄土教系、江戸落語には日蓮宗(法華宗)系のものが目だつという。
「落語には、一見仏教をいちじるしく冒瀆したように見える作品もあるが(この種の話は説教にもある)、これを瀆神的な行為とか宗教への反逆と見るのは近代人の錯覚で、江戸時代の日本仏教は、もはや善悪両面の極に達し、泥沼的な一面も平気で許容されるほど日本人の生活の中に浸透してしまっていたのである。地獄極楽は説教や絵解き、芝居などを通じて全国に普及した」(108-109)。
もちろん、「江戸中期から後期にかけての説教は、まさに話芸であり、説教の会場は寄席であり、大衆娯楽の殿堂と化した一面があった」とも(140)。
著者は、円朝のことも江戸時代的な仏教思想の面から評価している。「説教者が常に口をすることを土台にして、円朝はみずからの説教を話芸の世界で樹立することができた。神経症まで持ちだして開化風に装いながら、因果応報の古い説教を新鮮味のあるものにして円朝は寄席の高座で演じたのである」(122)。
近世真宗の説教にはふたりの巨匠、本願寺派の菅原智洞と大谷派の粟津義圭。「江戸時代後期から明治・大正・昭和初期にかけての節談説教の高度な内容や技術は、すべて智洞と義圭に負っているといっても過言ではない。近代における説教興隆の基盤を築いた両者の功績は甚大である」(169-170)。
「明治初年に急激に北海道に真宗の信者がふえ、説教が盛行するようになった一因は、明治3年に東本願寺第21世厳如が、法嗣の現如に命じた北海道を巡錫させたことにある。その後、北海道には真宗大谷派寺院と門徒の数が増大し、説教は隆盛をきわめることになった」(175)。
近代の説教者としては、木村徹量(本願寺派、広島県賀茂郡河内町・光泉寺住職)、宮部円成(大谷派)、服部三智麿(大谷派)、亀田千巌(大谷派)らが紹介されている。
「一人前の説教者になるために、師匠の随行をするという修業の方法は、昭和10年代をもって終止符を打った。大正から昭和にかけて日本仏教各宗が大学を設けたことは、学問の進歩と僧侶の教養を高める上で大いに役立っているが、これは伝統説教を蔑視し、崩壊させる原動力ともなり、内容は高くなっても技術的には感銘度の薄い拙劣な我流の法話が盛行する一因ともなった」(196-197)。
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