Month: December 2021

ジャン・ドリュモー『恐怖心の歴史』

永見文雄・西澤文昭訳、新評論、1997年。原著は1978年で、原題は『西洋における恐怖心』。

 序論 恐怖心を追い求める歴史家
第一部 一般大衆が抱く種々の恐怖
 第一章 恐怖の遍在
 第二章 過去と闇
 第三章 ペスト時代の集団行動の類型学
 第四章 恐怖心と反乱(I)
 第五章 恐怖心と反乱(II)
第二部 指導的文化と恐怖心
 第六章 「神を待つ」
 第七章 サタン
 第八章 サタンの代理人(I)―偶像崇拝者とイスラム教徒
 第九章 サタンの代理人(II)―絶対的悪としてのユダヤ人
 第十章 サタンの代理人(III)―女性
 第十一章 歴史の謎、魔法の大弾圧(1)―資料
 第十二章 歴史の謎、魔法の大弾圧(2)―解釈の試み
結論 異端と道徳秩序

出版社の内容説明、「膨大な資料を発掘・渉猟・駆使した心性史研究における記念碑的労作!海、闇、狼、幽霊、彗星、星、月、ペスト、飢餓、税への本能的で非理性的な自然発生的恐怖心。トルコ人、偶像崇拝者、ユダヤ人、女性、魔女と魔法使いをめぐる「恐怖の代替作用」と指導的文化のメカニズム。攻囲妄想的強迫観念のさまざまな発現形態の同根性を圧倒的迫力で論証した14-18世紀西洋の壮大な深層の文明史。」
海、闇、狼、幽霊、彗星、星、月、ペスト、飢餓、税と列挙されているが、ほかにも死体や死者、安全でないという感覚、社会変化、風聞、黙示録的世界、悪魔、イスラーム、トルコ人、改宗者、女性などが恐怖の対象として言及されている。

あれこれさまざまな対象に対する恐怖心の発現を辿って、前半はそれだけでも刺激的である。が、後半になると、この本全体が近代社会の登場について従来の見方を覆そうとするものであることが分かり、そういう試みとしてのおもしろさが分かってくる。つまり、ルネサンスや宗教改革、近代社会の登場とは、従来そうイメージされてきたように、恐怖心に満ちた無知蒙昧な状況を克服する諸段階だったのではなく、むしろ恐怖心の興隆と並行して進み、恐怖心をひとつの動因とした出来事だったということ。もしかすると、結論を読んでから全体を読み始めた方がいいのかもしれない。ただしこうした歴史解釈について、注記として頭の片隅に置いておきたいのは、ドリュモー自身がカトリックの、おそらくは敬虔な信者であることである。

「プロテスタントの宗教改革は、ある意味では深い終末論的高揚の結果生まれたのであって、つぎにはそれに拍車をかけることに寄与したのである」(409)。「印刷術は、サタンとその手先たちに対する恐怖心を、大部の書物と民衆向け刊行物の両面から広めた」(450)。「ルネサンスは、レオナルド、エラスムス、ラブレー、コペルニクスなどの何人かの人にとってのみ人間の解放の時であった。だがヨーロッパのエリート層の大半にとっては、それは弱さの感情だったのである」(473)。「近代初めのヨーロッパを数世紀にわたり血にまみれさせた暴力行為の数々は、悪魔とその代理人たちとその策謀に対して抱いた当時の人々の恐れの大きさに見合ったものだったのである」(474)。

「ルネサンスの時代になって、西洋人たちは悪魔の支配する領域が、1492年以前に考えていたよりはるかに広大であることを確認して仰天する。そこであらためて、宣教師たちとカトリックのエリートの大半はアコスタ神父の唱えた主張に同意するのである。すなわち、キリストの降臨と、旧大陸での真の宗教の布教が実現したあと、サタンはインドに逃げ込み、そこに砦のひとつを構築した、という説である」(475)

「ルターは、トルコの危険に対して大きな恐怖心を告白していたが、同時に彼は、初めは福音を広める対象として期待するところがあったユダヤ人に対しても攻撃を加えていた。トルコ人とユダヤ人に対する非難が同時になされたのは偶然ではなかった。むしろこの同時性は、ある歴史的状況を明らかにするのである。西ヨーロッパにおいて、最も首尾一貫し、最も教義的な反ユダヤ主義は、ローマ教会が各地に敵を見いだし、十字砲火を浴びていると感じた時期に現れたのである」(509)

「近代の初めに西ヨーロッパでは反ユダヤ運動と魔女狩りが軌を一にして起こった。これは偶然ではない。ユダヤ人と同じく女性は、サタンの危険な代理人と見なされたのだ」(567)

「サタンの宗派との戦いにおいて、世俗の権力は教会に対して手助け以上のことをした。というのも、悪魔的な強迫観念は、あらゆる形で、絶対主義が強化されることを可能にしたからである。その逆に、ルネサンス期において国家が強化され安定化したことが、魔法使い・魔女狩りに新たな広がりを与えたと言うこともできる」(648)

「近代初期の時代にヨーロッパの大半の国々で全方位的に見られた迫害行為、それも政治=宗教的権力によって指揮された迫害行為を説明するのは、恐怖心なのである」(711)。こうして「規範化」へ。

「総合救貧院とツーフトハウスとワークハウスの創設は、われわれの目から見ると、ひとつの社会を囲い込むという壮大な意図があったことを明らかにしてくれる。魔法使い、異端者、放浪者そして狂人、さらにまた「異教的」祝祭とくり返される冒瀆的言辞によって、たえず定められた規範の外側に逃げようとしていた社会を、である。ふたつの宗教改革のあと、野放図に増幅されたキリスト教化と道徳化と一体化の総合的プロセスは、それまでは一種の「野生の」自由のなかに生きていた民衆を規律に従わせる方向に向かったのである」(752-753)

そういえば、女性に「サタンの矢」と否定的な解釈を与えた重要人物のひとりとして、ジャン・ボダンが何度も出てくるのが気になった。ボダンの思想ってどうなっているんだ、興味ぶかい。

さらに、前半からの抜き書きを備忘として。

「[モランがいうアルカイックな社会について]これらの社会においては、故人はある特別のジャンルの生者であって、彼らを考慮に入れ彼らと妥協しなければならず、できることなら彼らと良き隣人関係を持たねばならないのである。彼らは不死なのではなく、むしろある期間のあいだ非死なのだ。この非死性は不確定の、しかし永遠ではないある期間にわたる、生の延長である。換言すれば、死は一点に局限されたものではなく、漸進的なものと見なされているのである」(158)

「ペストに際しては、戦時と同じことで、人々の最期は怖じ気と混乱とそして集合的無意識にこの上なく深く根づいたしきたりの放棄という堪え難い条件のなかでくり広げられていた。それはまずもって個性化された死の廃棄であった」(218)

「1968年にフランスを揺るがした学生運動はふたつの恐怖心の重なったものとして説明できるように私には思われる」(279)。学生自身のキャリアや将来に関する恐怖心と、現代の非人間的物質主義への恐怖心。

[J0218/211210]

光井渉『日本の歴史的建造物』

中公新書、2021年。

第1章 歴史の発見
第2章 古社寺の保存
第3章 修理と復元―社寺
第4章 保存と再現―城郭
第5章 保存と活用―民家・近代建築
第6章 点から面へ―古都・町並み・都市
終章 日常の存在へ

この本は、日本の歴史的建造物をいろいろ紹介する本、ではなく、建造物の「保存」という思想の時代的変遷を辿った本。要領よくまとまっていて、勉強になる。

印象に残った話題として、たとえば、1931年に大阪城が、大阪のランドマークとして鉄筋コンクリートで200年ぶりに「再建」ないし「創出」されたが、1997年には昭和の近代建築として登録有形文化財になった事例など。名古屋城なども鉄筋コンクリート造りが揶揄されることがあるけれども、それはそれでひとつの思想の現れである。逆に古い状態をよく残している建築物でも、維持・改修が続けられている以上、「近代的」な性格を免れているわけではないということ。

今和次郎のバラック建築評価、大山顕さんらのドボク鑑賞、庵野秀明さん的な電信柱や電線風景愛まで、建築や街並をめぐる視線や嗜好は本当にいろいろ。僕自身も、消えゆく街並や建物に対する愛惜の念や、そうした変化に対する抵抗感は強い方だが、移り変わることにさえ価値や美を感じることはできるのだからね。

そういや本書には、「こんなところにも」という感じで、大学院生時代の辻善之助の名前が。古社寺保存法が1897年に制定されて最初期に行われた新薬師堂本堂と唐招提寺金堂の修理に際して、関野貞は西洋式の技術を用いるなど、創作的な復元を実施して議論になったという。その際、関野を擁護、あるいは代弁する論考を発表したのが辻だというエピソード。

[J0217/211201]