Month: November 2024

ルソー『言語起源論』

副題「旋律と音楽的模倣について」、増田真訳、岩波文庫、2016年。原テキストは死後出版されたものだが、初期に書かれたものであるらしい。『不平等起源論』とそんなに時期はちがわないと推定されているらしいが、内容面ではあれこれ異同もあるようで、ルソー独特の分けわからなさが、ここでも。このテキストだけ読んでもなんともならなくて、他の主著や同時代の思想家の主張と照らしあわせながらでないと。

第1章 – われわれの考えを伝えるためのさまざまな方法について
第2章 – ことばの最初の発明は欲求に由来するのではなく情念に由来するということ
第3章 – 最初の言語は比喩的なものだったにちがいないということ
第4章 – 最初の言語の特徴的性質、およびその言語がこうむったはずの変化について
第5章 – 文字表記について
第6章 – ホメロスが文字を書けた可能性が高いかどうか
第7章 – 近代の韻律法について
第8章 – 諸言語の起源における一般的および地域的差異
第9章 – 南方の諸言語の形成
第10章 – 北方の諸言語の形成
第11章 – この差異についての考察
第12章 – 音楽の起源
第13章 – 旋律について
第14章 – 和声について
第15章 – われわれの最も強烈な感覚はしばしば精神的な印象によって作用するということ
第16章 – 色と音の間の誤った類似性
第17章 – みずからの芸術にとって有害な音楽家たちの誤り
第18章 – ギリシャ人たちの音楽体系はわれわれのものとは無関係であったこと
第19章 – どのようにして音楽は退廃したか
第20章 – 言語と政体の関係

[J0533/241111]

S.フロイト『モーセと一神教』

渡辺哲夫訳、ちくま学芸文庫、2003年。訳本としては1998年のものが底本。ほかには、光文社古典新訳文庫から、中山元訳もあるみたいだ。

原書は1939年出版で、渡辺氏いわく、フロイトの遺書にあたるものだそう。氏は、フロイトの仕事のなかでこの書がきわめて特異な位置を占めており、かつ重要な著作であることを強調している。原題は Der Mann Moses und die monotheistische Religion であり、「人間モーセと一神教」と訳している人もいるようだ。

本文に劣らず異様な迫力のある「解題」で渡辺氏が述べているように、本書は行きつ戻りつの論行になっている。フロイトをほとんど読んできていない僕には、それだけにフロイトの基本的な考えが分かるような気がしたが、氏によれば本書の議論はあくまで特異であるらしい。

1 モーセ、ひとりのエジプト人
2 もしもモーセがひとりのエジプト人であったとするならば…
3 モーセ、彼の民族、一神教(第一部・第二部)
解題 歴史に向かい合うフロイト(渡辺哲夫)

『精神分析入門』以来、宗教を神経症に比すべき現象として、科学以前のものと位置づけていたフロイトだが(本書でもそのような言明をしている)、しかし本書では、異常な情熱をもってユダヤ教を論じている。それは、ユダヤ人とはどんな民族かという問題関心に導かれてのことである。『トーテムとタブー』(1913年)以来、一連の宗教論に関してフロイトがインスピレーションを受けているのは、ジェームズ・フレイザーの「王殺し」論やロバートソン・スミスの供犠論であり、ダーウィン以下の進化論と系統発生論(個体発生は系統発生をくりかえす)、J. J. アトキンソンの原始群族論である。

話は、モーセはエジプト人であったという仮説からはじまる。エジプトでは、アメンホーテプ四世(イクナートン)のときに、世界史上最初の不寛容で厳格な一神教「アートン教」が誕生した。エジプトではその芽はまもなく摘まれてしまうが、これを引き継ぎ、ユダヤ人に伝えたのがモーセである。そしてまた、このモーセは、ユダヤ人に打ち殺されたのだと(実はモーセは二人いたのだと)フロイトは論じる。彼によれば、モーセ殺害は、ゼリンによってもゲーテによっても認められたことだという。

その裏にあるのは、「暗闇のなかに消え去ってしまっている」(190)、人類における「原父殺害」の太古の記憶である。隠蔽されたモーセの殺害、そしてまたイエス・キリストについても「原父殺害の主犯の後継者にして生まれ変わりにほかならない」(149)。それはまた、「忘却された記憶痕跡の反復」とも表現されている(171)。それは両価的な感情を生む。「伝承に関する心理的事態にあっては、個人の場合と集団の場合のあいだの一致はほとんど完璧であって、集団のなかにおいても過ぎ去った出来事の印象は無意識的な記憶痕跡のなかに保存され続けているのだ、と私は考えている」(160)。「神聖なるものとは、根源において、原父の持続的な意志以外のなにものでもない」(202)。

「ユダヤ人を創造したのはモーセというひとりの男であった、と敢えて言ってもよかろうと思う」(179)。そして、精神活動と肉体活動の調和を掲げたギリシャ民族とも異なって、「父の宗教」に奉じたユダヤ人について、「ユダヤ的本質の精神性における特異な発展は、神を目に見える造形物として崇拝することを禁じたモーセの掟によって開始された」(193)のだという。一方、「父の宗教から発して、キリスト教は、息子の宗教となってしまったのだ」と、キリスト教は「父の宗教」の緊張に満ちた原理から外れてしまったものと位置づけられている。

たしかにフロイトの議論には妙な緊張感があるが、そこに「エス論者」フロイトの闘いをみいだす渡辺哲夫氏による「解題」は、それ以上の力の込めようだ。

「宗教・神話・芸術を、超自我の、要するにエスの「形成の歴史」の所産と見なすフロイトにとって、「系統発生的獲得物、古代の遺産」は、歴史の根柢にあるのではなく、自然人(ホモ・ナトゥーラ)の特権的所有物たる心的装置の産物、超自我を媒介として前進し続けるエスからの派生物に過ぎない。「最深の層」たるエスから生じる「人間精神の最高のもの」は、実のところ、人間精神の最表層の薄い皮膜の如きもののに過ぎない、「古代の遺産」とて例外ではない。これがエス論の必然的帰結であり「科学的逆転劇」の実演である」(237)。

そして本書における展開。「エスの代理人とされてきた超自我という審級は、実はエスから生まれたのではなく、モーセの掟すなわち歴史的事実の力によって制作されたのではあるまいか、これがフロイトを戦慄させた疑念である。「精神性」が「感覚性」を圧倒して行く厳然たる歴史的事実に直面して、エス論者は立ち尽くす」(244)。「エス論が人間の自然の学、官能の学、「感覚性」の学であるのは明白だろう。この特質ゆえに精神分析は成立しえたのであり、「科学的逆転劇」(ビンスワンガー)も展開されえたのである。ところが、超自我の概念とモーセの掟が正面衝突したとき、崩れ去ったのは超自我であり、大きく揺らいだのは超自我の胎盤たるべきエスの方だった。モーセの掟、とりわけ「感覚性」峻拒の掟は、歴史的に制作された力として、心的装置にとり返しのつかない亀裂を走らせるほどの強度を持っていた」(246)。

解説者は、フロイトが非時間的・非歴史的であるあり方につき、生命と歴史との間を行き来したニーチェの自由さのほうを評価するが、同時に次のように述べる。「もちろん、過去と伝統の担い手たるべき超自我という脱出口を通ってエスの磁場から離脱しようとした最初の人がフロイトであり、彼を破天荒な冒険へと招いたのがモーセの呼び声であった事実は銘記されなければならない。フロイトにとってのモーセは、ニーチェにとってのヘラクレイトスであった。あるいは、それ以上の何者かであった」(254)。

「エスには、当初から、「生」(ニーチェ)に対する毒が含まれている。その毒の名は、「歴史病」ではなく、「無機物」へ「退行」せんとする衝迫すなわち「死の欲動」である。フロイトの生命論には、結局のところ、「生」の輝きがない。この事情にはフロイト自身も気づいていると思われる」(269)。「最晩年のフロイトを危機に直面せしめたモーセとエスのあいだの対立的な緊張は、ここに至って、ユダヤ的「先王の作為」とギリシャ的ピュシスのあいだの壮大な緊張関係になってくる。歴史の根柢は何であるか、との問いは、存在者の根柢は何であるか、という問いにほかならないことが理解されよう」(275)。

やはり本書でも、フロイトの理論は、彼自身やヨーロッパ世界の、強迫観念に支配された神経症的精神風景の反動の産物だとの印象をもつ。それを煮つめた精華であるがゆえに、彼の理論自体がまた、抑圧された意識の深層を刺激する(かのように感じられる)元型としての働きをもつ。少なくとも、彼の理論は、行間からにじみでる独特のムードから切り離すことができない。理論構成においてはまったく対照的だが、そこだけは、不安の状態が実態を開示するとした実存主義のありかたと通じている。

[J0532/241105]

山田雄司『怨霊とは何か』

副題「菅原道真・平将門・崇徳院」、中公新書、2014年。著者は古代・中世史の専門家で、道真らの同時代の様子に詳しいのはもちろん、江戸時代など後世になって怨霊譚がさらに流布していく歴史的過程までを記述。古代・中世に怨霊が語られた背景には、社会不安があってのことと分かる。

七体に分身して一体だけが本物。分身には影がないので見破れる。体は鉄でできていて、弱点はこめかみだけ。斬られた首と体が合体すると、復活する。これ、平将門のことらしい。

第1章 霊魂とは何か
第2章 怨霊の誕生
第3章 善神へ転化した菅原道真
第4章 関東で猛威をふるう平将門
第5章 日本史上最大の怨霊・崇徳院
第6章 怨霊から霊魂文化へ

「怨霊」の語の初見は、『日本後紀』延暦24年(805)四月甲辰条で、早良親王(750-785)の霊魂の慰撫について書かれた項目とのこと。

「日本史上最大の怨霊」崇徳院(1119-64)は、『梁塵秘抄』に収められている関連の歌や、『今鏡』の記述をみても、実際には寂しくもおとなしく亡くなったものらしい。それが、「魔縁となれば」との置文を遺した後鳥羽院(1180-1239)の怨霊が語られるようになると、境遇のよく似た崇徳院にもスポットが当たり、『保元物語』や『平家物語』の記述が成立したと、本書著者は考察している。こうして、悲劇の死を遂げた安徳天皇(1178-85)とも並んで、崇徳院の慰霊が重要視されるようになったという。

崇徳院以後にあらわれた怨霊には、源義朝、奥州藤原氏、後鳥羽院、北条高時、護良親王、後醍醐天皇などのそれがある。しかし、災異の原因を怨霊に帰結させて国家的対応をとるような「怪異のシステム」は、戦国時代にはなくなっていったと著者は述べている(179)。

また著者の見解として、「一般的に、人を神とするのは、怨霊の場合を除いて、豊臣秀吉を豊国大明神として祀った戦国時代まで降るとされている。しかしこれは国家が人を神として認定する場合であって、個人が私的に自分の先祖を神として祀ることは古くから行われていたものと思われる」(180)と述べている。すこし判断は保留しておきたいが、本書ではいくつかの例が挙げられている。

また著者は、「怨親平等」思想の伝統に注目して、日清・日露戦争や日中戦争、太平洋戦争でもその発露があったとしている。その事例もたいへん興味深いが、この論点も、ペンディングとしておきたい。

[J0531/241104]