Month: November 2024

邑智郡大元神楽保存会編『邑智郡大元神楽』

1982年、邑智郡桜江町教育委員会。大元神楽に関しては、観光資源保護財団編・発行『大元神楽』(1977年)といった報告書もあり、新しい入門書として出雲古代歴史博物館が編集した展覧会の図録などもあるが、本書のほうがずっと記述が厚く、牛尾三千夫『神楽と神がかり』と並んで、第一の基本文献といえそうだ。・・・・・・なんて、詳しい方に教えていただいたんですけども。

序文 桜江町教育委員会教育長 原田静雄
はじめに 牛尾三千夫
大元神楽の性格とその変遷 山路興造
大元神楽式について 牛尾三千夫
舞方・囃子方 竹内幸夫
綱貫きについて 三浦賢斉・竹内幸夫
神がかりと託宣 牛尾三千夫
大元神楽現地公開見学記 岩田勝
資料

1981年3月に重要無形民俗文化財の指定をうけて行った小田八幡宮における大元神楽の公開催行の様子が記述されているが、参観者のなかには萩原龍夫、樋口昭、鈴木正崇、神田より子といった各氏の名前がみえる。公開催行だから生じないとおもっていた「託太夫」への神かがりの様子が凄い。

先日2024年11月16~17日には、故・牛尾三千夫氏の本拠である市山の飯尾山八幡宮で6年に1度の大元神楽が実施されている。式年で行われる各地の大元神楽はかなりコロナの影響を受けたといい、出雲地方でも33年に1度実施され、神がかりのある東忌部熊山の荒神神楽が、2021年に延期されている。だが、この市山の大元神楽はちょうどコロナの時期を避けられた格好となった。

自分だって外部の人間なので偉そうなことをいう権利はないが、でもやっぱり気になったのはスマホの動画撮影で、禁じられてはいないのだけど、神事の雰囲気を壊していることはたしか。ふつうの奉納神楽ではなく大元神楽なのだし。しつこく撮影しているのは、ほとんど、もしかしたらみんな、外部の人。いかにも都会の人だったりする。せめてスマホのディスプレイを消灯するようなことはできないものか。わざわざ江津にまで来ているくらいだから、たしかに「理解者」の側ではあるのだろうけど、こうして神事は壊れていくのだろうか。変質ですめばいいのだが。

[J0536/241120]

加藤尚武『現代倫理学入門』

講談社学術文庫、1997年。1993年の放送大学教材『倫理学の基礎』の改訂版だそう。

今回、いま関心のある「11 他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいか」という章だけに目を通したが、この章は「本書の中心」なのだそうだ(8)。

「私が判断して、現代の倫理にもっとも近い古典は、J. S. ミルの『自由論』(1859年)である。・・・・・・〔『功利主義』という相補的な著作もあるが〕私はことさらに『自由論』こそ、現在の基軸的な著作であると主張したい」(5)。

1 人を助けるために嘘をつくことは許されるか
2 10人の命を救うために1人の人を殺すことは許されるか
3 10人のエイズ患者に対して特効薬が1人分しかない時、誰に渡すか
4 エゴイズムに基づく行為はすべて道徳に反するか
5 どうすれば幸福の計算ができるか
6 判断能力の判断は誰がするか
7 〈……である〉から〈……べきである〉を導き出すことはできないか
8 正義の原理は純粋な形式で決まるのか、共同の利益で決まるのか
9 思いやりだけで道徳の原則ができるか
10 正直者が損をすることはどうしたら防げるか
11 他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいか
12 貧しい人を助けるのは豊かな人の義務であるか
13 現在の人間には未来の人間に対する義務があるか
14 正義は時代によって変わるか
15 科学の発達に限界を定めることができるか

「自由主義の原則は、要約すると、「①判断能力のある大人なら、②自分の生命、身体、財産にかんして、③他人に危害を及ぼさない限り、④たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、③自己決定の権限をもつ」となる。ところが、この五つの条件すべてに難問がからんでいる。何を自由にしてよいかについて、大枠の合意が必要である」(167)。

「自由主義の原理の中心部分」であるとされる、第三の、他者危害の原則条項について。著者はまず、「他者への危害と他者への迷惑とは、はっきり区別されなければならない」(174)とする。「人間の悪事には三種類ある。他者への危害、他者への迷惑、自己への危害である。このなかで刑罰の対象になるのは、他者への危害だけである。他者への迷惑と自己の危害に対して応酬できるのは、ただ、白眼視したり仲間はずれにしたりすることだけである」(176)。

「ここでは行為が、無限の空間の中のアトムとして考えられている。だから他者に関わる行為と他者に関わらない行為は、実際上は区別がしにくい場合があったとしても、建て前として区別できるものとして考えられている。
「私がタバコを吸えば、周りの人間すべてが無関係ではいられない。私がダイヤモンドを掘り出せば他者に残されるのは残りのダイヤモンドであって、私が他者になにも働きかけなかったとしても、私の行為は他者と関わっている。これは私の行為が図柄で、外部の世界はその地柄となる関係である。私の行為や私の存在とそれを切り抜きだした残りの空間とは、ゼロ・サム関係と同じで、一方が決まれば他方も決まる、完全に相互規定的な関係にある。そして私にとっての他者は、私と相互規定的な地柄の中にいる。
「私と他者は、共同の中立的な空間の中のアトムではない。どちらにとっても同じ意味をもつ空間は存在しない。私がタバコの煙で汚染した空気とそれを吸う他者との関係は、加害側と被害側の関係である。環境という関係規定は、私に無関係な他者の存在を認めない。」(176)

「他者危害の原則は、厳密には存在しないアトム・モデルに依存している。だから、他者危害の原則に従って自由に認められる行為は、厳密に言えばありえない。それなのに人格と行為のアトミズムという想定によって、自由主義の原則が組み立てられ、そのもとで「自由な行為」が存在を認められている」(177)。

「自由という観念の中心には「何をしてもいい」という不確定さがある。「汝の欲するところを行え」という格率の中には、すべての呑み尽くす深淵のようなものがある。自由には、悪の許容と言う要素がある。他人に危害や迷惑をかけないなら何をしてもいいというのが、自由主義の中心にある考え方である。ここには積極的に何をすべきかと言うことに、一言も触れまいとする覚悟がある」(187)。

マッキンタイヤー『美徳なき時代』における自由主義批判に触れて、「すなわち、自由には文化の質を向上させる要因があると信じたミルの啓蒙主義は、大いなる誤算だったと言っている。むしろ、「他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」という自由の空しさ(否定性)は、文化を退廃と混迷へと導いている。マッキンタイヤーのこの主張は正しい。ミルの期待に反して、自由主義と理想主義はひとつに重なり合わなかった。愚行権を認めることが、人生をひとつの愚行に終わらせる危険をはらむことが、見えてきている」(188)。

しかし、「自由主義を実際に運用するときのさまざまな問題点を、共同体主義者が解決したとは言えない。われわれは、場合によっては、さまざまな欠点をさらけ出す自由主義を、なんとか使いこなしていかなくてはならない」(188)。

[J0535/241113]

青山治城『なぜ人を殺してはいけないのか』

副題「法哲学的思考への誘い」、法律文化社、2013年。

序章 「心の内戦」と「法の力」
第1章 「なぜ」という問いの意義
第2章 殺してはいけない「人」とは何か
第3章 「殺す」とはどういうことか
第4章 「いけない」とはどういうことか
第5章 法的正義と法的責任

メインタイトルはあまり正確ではなくて、副題の方が的確な、法と法の効力に関する哲学的議論のテキストブック。

めちゃめちゃ断片的なメモ。

「「社会の再発見」とは、政治思想史の文脈における S.S. ウォーリンの言葉であるが、その趣旨は、人々が宗教的観念をもとにして人間関係を一種の有機体としてみる見方から、自分たちの信条によって成立する政治秩序とする見方を経て、再度、政治的なものとは別個独立に、無数の社会的権威を基礎として成立するとする見方が復権してきたことを指している」(38)。

「フランスの人権宣言は、一方ですべての成員の平等な人権保障、しかも経済的な面における実質的平等を求める社会主義的な要素をもっている。その意味では、マルクス以降の社会主義的革命がフランス人権宣言の正当な後継者を任じていたこともうなずける。そして実際、フランス人権宣言の影響を受けたヨーロッパ諸国では、個々人の自由な行動と成員の経済的平等を同時に保障しようとする、いわゆる社会民主主義的な方向を歩んできたと言うことができる」(70)。

「普通、法は直接的にある行動を禁止することはない。殺人にしても、刑法は「殺してはならない」とは言わずに、ただ「・・・・・・刑に処す」とするだけである。この点から見ると、法律は人間の行動を規制する「行動規範」ではなく、裁判において判決を下すために裁判官に向けられた「裁判規範」である」(104)。

「例えば、本書のテーマである殺人の禁止について言えば、この禁止規範はいついかなる場合でも妥当するわけではなく、死刑や戦争における殺害は許容される場合がある。・・・・・・「人を殺すこと」が直接自然法によって禁止されているかというと、どうもそうではないように思われる。ただし、殺人が例外的にではなしに一般的に許与されてしまうと、社会秩序が維持できなくなる。すると、自然法的な考え方では、原則と例外の区別が問題になってくる。そこからすると、この原則と例外の区別を正当に行うことができるか、また誰がその区別をすることが正当なのか、が問題となる」(111)。

[J0534/241111]