Month: July 2025

上杉正幸『健康不安の社会学』

副題「健康社会のパラドックス」、世界思想社、2000年。
全体としてはコツコツとした、地味な社会学的研究の成果。四半世紀まえの本だが、次の箇所だけでも価値がある。


「健康社会はこれまで「早期発見の幸せ」を目指して健康水準を高めてきたが、それは一方で手遅れの状態を不幸と位置づけることでもあった。手遅れになる前に早期に発見し治療することが幸せと考えられ、「早期発見の幸せ」を拡大することが「手遅れの不幸」をなくすことにつながると考えられてきたのである。そして医学の進歩によって、人々はますます大きな「早期発見の幸せ」を手に入れられるようになってきた。しかしそれはまた、「手遅れの不幸」を大きくすることでもなった。病気の予防・発見・治療技術が進歩し、早期発見・早期治療の可能な分野が拡大すればするほど、それでもなお手遅れの状態で病気が発見されることは大きな不幸となってくる。「早期発見の幸せ」と「手遅れの不幸」が背中合わせになっている時、幸せが大きくなるほど、幸せが壊れた時の不幸も大きくなる。しかし、健康が病気や死と同一次元の問題でないのと同様に、早期発見か手遅れかという問題と、幸せか不幸かという問題も同一次元の問題ではない。早期発見の状態の中には幸せも不幸もある。それと同じく、手遅れな状態の中にも幸せと不幸がある。そして、すべての人間に死がいつか訪れ、誰もがいつかは手遅れの状態になることを考えると、手遅れの状態をこそ幸せな状態にすることが求められなければならない。いつか訪れる手遅れの状態を不幸と考えるなら、誰もがいつかは「手遅れの不幸」に陥ることになり、この不幸から逃れることができない。したがって、健康社会は「早期発見の幸せ」のみではなく、その陰で忘れられてきた「手遅れの幸せ」をも目指さなければならない。黒澤が〔『生きる』で〕描いた世界は「手遅れの幸せ」の世界といえる」(227-228)。

言葉として、「早期発見の不幸」とまでは述べてはいないが。

1 健康不安の時代
2 健康不安の意識構造
3 健康不安からの脱出

[J0593/250721]

橋本努・金澤悠介『新しいリベラル』

副題「大規模調査から見えてきた「隠れた多数派」」、ちくま新書、2025年。
政治的立場にかんする従来の対立図式やカテゴリーでは、現在の人びとの政治的志向をつかめないという問題意識までは分かる。ただ、「旧リベラル」に対して不自然に当たりが強い感じがするし、「新しいリベラル」のどのへんがリベラルなのか、といったあれこれの疑問も浮かぶ。ただ、いかに調査に基づくといっても、こういった種類の議論になると、まったく「政治的に中立」に立つことはできず、なんらかの政治的立場にコミットした議論になることは、当然といえば当然かもしれない。

はじめに──見えてきた「新しい」リベラルの姿
第Ⅰ部 これまでのリベラル
第1章 衰退しつつあるリベラル?
第2章 「保守vsリベラル」はどこまで有効か?
第3章 旧リベラルとは何か?
第4章 旧リベラルを支える思想
第Ⅱ部 新しいリベラルの全体像
第5章 その理論と思想
第6章 それはどんな人たちか?
第7章 新しいリベラルを取り巻く五つのグループ
第8章 新しいリベラルの政治参加
第9章 新しいリベラルが作り出す「新しい」政治

「リベラルな政治勢力は、政党レベルでも社会運動レベルでも、長期的なトレンドとしては衰退しつつある。ではこの状況は、人びとの価値観が、もはやリベラルではなくなったことを意味するのだろうか。興味深いことに、多くの社会調査の結果を見ると、この問いに対する答えは「ノー」である。全国レベルの社会調査の結果が示すのは、2000年代から2010年代にかけて、ジェンダー平等、新自由主義、ナショナリズムについての人々の意識は、大きくは変化していないということである」(32-33)。新自由主義については、「競争の結果として社会的な格差が拡大してもかまわない」というような価値観は浸透していないと。反ナショナリズムの価値観も大きく減少していないと。ここが重要なところと思うが、先行の調査をざっくり指示するだけで、どうもあっさりしている。

「〔従来型の〕リベラル勢力が衰退したのは、安倍政権がリベラルな経済政策を推し進め、それに成功したからだといえる。2012年以降の日本は、自民党政権のもとで、いっそう福祉国家化していった。・・・・・・経済政策だけでなく、リベラル派の政治的・社会的な主張の多くが、自民党政権に取り入れられたことである。例えば、東日本大震災の被災者に対する支援、育児支援策、アイヌ民族への支援策、18歳選挙権の導入、従軍慰安婦問題の日韓合意などは、いずれもリベラルな理念に基づく政策である。これらは安倍政権のもとで進められた。安倍政権は、弱者批判、少数派支援、市民権の拡充といったリベラルな考えの多くを取り入れた。・・・・・・このように、自民党がリベラル化した結果として、リベラルな対抗勢力がみえにくくなった」(44-45)。

ふむふむ?

「戦後の日本政治は、長らく「保守 vs 革新」という構図で語られてきた。ところが1990年代になると、「保守 vs リベラル」という構図に変化する。・・・・・・その最大の理由は、1989年に東欧革命が起きて、もはや社会主義や共産主義の体制が、日本社会の選択肢ではなくなったからである」(104)。

「旧リベラル」の「根幹的な特徴」(旧たるゆえん)とされるもの。①日米安全保障条約への反対。②憲法9条の改正反対。③天皇制反対。④従軍慰安婦問題への真摯な対応。一方、新しいリベラルとの共通点。①社会保障や公共事業の拡大といった社会民主主義的な経済政策。②ジェンダー問題への取り組み、市民参加の促進、個人権の擁護といった伝統的な社会からの解放。「これらの主張は、新しいリベラルの観点からみても指示できる」(117)。「リベラルな立場は、経済体制としては、資本主義でも社会主義でもなく、その中間に、社会民主主義的な福祉国家を建設すべきだと考える」(117)。

うーん、半分は分かるが、納得しがたい点も多い。旧リベラルの特徴四つとして挙げられているものは、著者らが打ち出そうとする「新しいリベラル」から逆算して列挙されている感じがする。この四つの抽出のしかたにも恣意性を感じる。また、個人権の擁護などを「伝統社会からの解放」の一要素、一下位カテゴリーとして括ってしまうやり方は正当だろうか。

社会民主義的な福祉国家ですか。結果としてはそうなのかもしれないが、「旧」と「新」とのもっとも大きなちがいは、社会大のビジョンの内容のちがいである前に、そうした大きなビジョンを持つか持たないか、という点の方が大きいのではないか。そうだとすれば、「新しいリベラル」とひとつの政治的立場を統一的に括りだそうとする営み自体が「旧」であることになる。著者らは、第五章でギデンズやエスピン=アンデルセンらを引きあいに出して「社会的投資国家」のビジョンを提示しているが、外縁のはっきりしない「新しいリベラル」に理論的ビジョンを与えることが著者たちの本当の意図のように思われる。もちろんそれはよいのだけど、実態の調査や記述とビジョンの提示との区別をあいまいにしながら書かれているのが気になってしまう。

240ページでは一覧を掲げて、「新しいリベラル」「従来型リベラル」「成長型中道」「政治的無関心」「福祉型保守」「市場型保守」という六つの立場を「社会調査から明らかになった六つのグループ」として整理している。このグループ分けが、分かるようでわからない。クラス分析で抽出されたというのは分かるが、こういうネーミングをすることは、クラス分析やあれこれの統計分析手法からは結果しないはずだ。論点ごとならともかく、もはや総体的な立場として、リベラルと保守とを区別すること自体が難しくみえるのだが。

「リベラルにも三つの立場がある」(300)。啓蒙的な理性を重視するリベラル。多様性を重視するリベラル。個人の人格やプライドを重視するリベラル。
「本書で論じた「旧リベラル」は、第一のタイプを反権威主義と平和主義に拡張し、第三のタイプを弱者保護(救済)に拡張したものである。これに対して「新しいリベラル」は、第三のタイプをとりわけ次世代の人たちの育成という観点から捉えたものである」(301)。この段になると、歴史認識の話はまた別にされてしまうのか。うむ。

[J0592/250721]

里見龍樹『入門講義 現代人類学の冒険』

平凡社新書、2024年。帝国主義批判・植民地主義批判をまともにくらって、一時期は本当に危機に陥っていた人類学。その後、新しい思潮が出てきて、なにか盛り上がっているなとは横目に感じていたが、そこをいきいきとした筆致で紹介してくれている一冊。

本としてはすばらしいのだが、ただ、別の感想も。ご本人はなにも知らずにフィールドにとびこんだとおっしゃるのだが、もしフィールドワークもして、これだけの抽象度のある理論にも知悉して、それで研究をまとめなくてはならないとなると、今これから人類学をするというのもなかなかにハードルが高いことだなと。実際にはいろんなフィールドワークがあるんだろうけども。

1日目 人類学はどのように変化しつつあるか?
2日目 フィールドワークとはどのような営みなのか?
3日目 「文化」の概念はどこまで使えるのか?
4日目 人類学では文章などによる表現がなぜ大切なのか?
5日目 人類学にとって歴史とは何か?
6日目 現代の人類学はなぜ「人間以外の存在」に注目するのか?
7日目 現代の人類学はなぜ「自然」を考えるべきなのか?

「4日目」から。「私が言いたいのは、長期のフィールドワークを通して現地の生活に没入する人類学的な研究の本質は、今言った「いったいどうなるんだろう?」という視点にあるということです。フィールドワークの過程で、思いもかけない出来事にたびたび遭遇し、動揺しながらその都度そうした出来事について考えることを通して、自分の人類学的な理解や思考が形作られていく。そのことを人類学的思考の「出来事性」と呼びたいと思います」(160)。「なお、私はよく、卒業研究を書いている学生を指導するときに、人類学では「不安定な記述」を心がけるように、と指導します」(162)。

本書で取りあげられている本から。
エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロ『インディオの気まぐれな魂』。
ヨハンネス・フェビアン『時間と他者』(1983年、未邦訳)。
アルフレッド・ジル『芸術とエージェンシー』(1998年、未邦訳)および、その関連として『現実批判の人類学』所収の久保明教論文。
ティム・インゴルド「文化、自然、環境」(未邦訳?)
ブルーノ・ラトゥール『虚構の「近代」』・・・・・・など。

[J0591/250713]