Month: July 2025

戸森麻衣子『仕事と江戸時代』

ちくま新書、2023年。武士、町人、農民、漁民と、江戸時代における働き方を解説。学問として特定の知見を主張するというような主旨の本ではなく、この時代の社会見学へと連れていってくれるような一冊。

第1章 「働き方」と貨幣制度
第2章 武家社会の階層構造と武士の「仕事」
第3章 旗本・御家人の「給与」生活
第4章 「雇用労働」者としての武家奉公人
第5章 専門知識をもつ武士たちの「非正規」登用
第6章 役所で働く武士の「勤務条件」
第7章 町人の「働き方」さまざま
第8章 「史料」に見る江戸の雇用労働者の実態
第9章 大店の奉公人の厳しい労働環境
第10章 雇われて働く女性たち
第11章 雇用労働者をめぐる法制度
第12章 百姓の働き方と「稼ぐ力」
第13章 輸送・土木分野の賃銭労働
第14章 漁業・鉱山業における働き手確保をめぐって

「江戸の町人は、家持・地借(じがり)・店借に分けられる」(127)。
「現代社会においては「不動産を持っているかどうか」という違いは、市民としての権利に何の影響も及ぼさない。だが、江戸時代はそうではない。不動産を持つ家持だけが真の町人であって、さまざまな権利を保障され、その代わりに税的負担の義務を負った」(128)。
「地借は、借地とはいえ自己資金で建物を建てて事業を行っているわけで、それなりに経済力を持っている存在と言える。ただ、家持と異なり不動産たる地所を持たないため「町」の運営に参画することはできず、また、町入用を負担する必要もない。家持よりも町人としての身分は低いことになる」(130)。

「鉱山と同様に、江戸時代段階で雇用労働が集約的に投入された産業として漁業が挙げられる。現在の漁師の大多数は、漁船を持ち、自己裁量で操業する個人事業主である。・・・・・・しかし、漁船に家族などごく数人が乗り組み、魚を獲ってこられるのは、漁船に動力が付いているからである。航行に用いるエンジン、網の巻揚機など、これらを人力に頼ると想像してみたらどうであろうか。膨大な人手が要ることがわかる。江戸時代においてその人では、漁師間の隷属関係を背景として確保される場合もあれば、賃金を支払って雇用される場合もあった」(234)。

[J0590/250712]

永井孝志ほか『世界は基準値でできている』

永井孝志、村上道夫、小野恭子、岸本充生、副題「未知のリスクにどう向き合うか」、講談社ブルーバックス、2025年。『基準値のからくり』という書物の続編らしいが、企画の時点でもう良書。

第1章 男と女の基準値 テストステロンルールの迷走
第2章 新型コロナの基準値(1) 「距離と時間」の狂騒曲
第3章 新型コロナの基準値(2) 空気感染とはなんだったのか
第4章 トライアスロンと水浴の基準値 セーヌ川だけが汚いのか
第5章 放射線の基準値 誰が処理水と除去土壌を受け入れるのか
第6章 原子力発電所の基準値 どのくらい安全なら安全なのか
第7章 治水と防潮堤の基準値 科学だけでは決められない
第8章 がん検診の基準値 受けるべきか、受けざるべきか
第9章 PFASの基準値 世界から追われる嫌われ者
第10章 新しい「食」の基準値 コオロギは本当に安全なのか
第11章 AIと個人情報の基準値 自分で基準をつくっていく

基準値によくある特徴、① 従来型の科学だけでは決められない、② 数字を使いまわしてしまう、③ 一度決まるとなかなか変更されない、④ 法的な意味はさまざまである、とのこと。

「基準というものは、考えるという行為を遠ざけさせてしまう格好の道具である」。

  • 空気感染と区別して、マイクロ飛沫感染という設定をしたことは、著者らにも理由不明である。
  • CO2濃度の換気量の基準は、もともと体臭の充満の許容度に由来する。
  • 踊り場など、学校の天井の高さの規制は、石炭ストーブによる一酸化炭素中毒防止の規制が140年間残ったもの。
  • 水浴による感染リスクの基準値は、水道水よりはるかに高い。
  • 原発事故の処理水について、直接の飲用ベースで設定しているが、放出された海水中の魚などを食べたときのリスクをベースにした方が適当ではないか(という著者の意見。ただし、後者の数字でも十分安全という判断になるらしい)。
  • 温泉の禁忌症として妊娠が指定されていたことには根拠がなく、旅行を控えよくらいの意味だったと推測される。
  • 日本は工学プラント管理にリスク許容基準が採用されておらず、個々の装置の安全を確認する方法を採っている。原発はその例外。
  • 福島第一原発事故当時の原子力委員会委員長の発言、「私の最大の誤りは、安全目標の基準を公衆の過剰被曝において土地汚染の発生確率におかなかったこと」。
  • 「200年に1回の降雨」とは、1年間に200分1の確率で発生するという意味であり、たくさんある河川ごとにその確率が判断されている。
  • 治水計画のリスクの考え方には、既往最大主義と「○○年に1回」という確率主義がある。

・・・・・・とまあ、メモの一部だけれども、いろいろおもしろい一冊。

[J0589/250710]

川村邦光『弔いの文化史』

中公新書、2015年。前半は歴史の話、後半は著者自身のフィールドワークを活かした記述になっている。

 序章 天災と弔い
第I部 弔いの方法
 第1章 鎮魂とは何か
 第2章 火葬と遊離魂の行方―『日本霊異記』の世界
 第3章 弔いの結社と臨終の技法―源信の「臨終行儀」と活動
 第4章 女人の救いと弔い―蓮如の実践
第Ⅱ部 弔いの風習
 第5章 死者の霊魂の行方
 第6章 弔いとしての口寄せの語り
 第7章 ホトケ降ろしの語りと弔い
 第8章 弔いの形としての絵馬・人形
 第9章 災厄と遺影

折口信夫は、念仏踊りなどの風習から、「未完成な霊魂が集つて、非常な労働訓練を受けて、その後他界に往生する完成霊となることが出来ると考へた信仰」を想定したという。「「未成霊」は孤独なのではない。この世の若者の修練・苦行によって、あの世の「未成霊」を成熟させることができ、生者と死者は連携して、あるいは連帯して、ともに「魂の完成」を果たすことができるとするのである」(165)。

たしかに、こう説明すると、あれこれの民俗行事の意味を説明できるような気はする。著者はこのような「霊魂を成熟させる風習」として、ムカサリ絵馬にも言及する。

「彼岸と此岸で同時並行する、未熟な霊魂から完成した霊魂への発展、すなわち霊魂の更新とは、折口の言うタマフリの概念に相応しよう。このタマフリはタマシズメ、おそらくいく度にも及ぶタマシズメを重ねることによって達成させる。こうした未決の霊魂を更新させようとする実践は、生者と死者のともに営まれる、弔いの社会的な心性史のなかに位置づけることができるのではなかろうか」)(266)

[J0588/250709]