Month: July 2025

相馬拓也『遊牧民、はじめました。』

副題「モンゴル大草原の掟」、光文社新書、2024年。
調査をしてもやっぱり、モンゴル人は乱暴で自分勝手だ、というような告白からはじまる書だが、全体としてはちゃんとしたエスノグラフィー。やはり、背景には厳しい自然環境があるということもわかる。

第1章 遊牧民に出会う
第2章 草原世界を生き抜く知恵
第3章 遊牧民にとっての家畜
第4章 野生動物とヒトの理
第5章 ゴビ沙漠の暮らしを追う

アルタイでの暮らし、「冬の暮らしは、まるで嵐をやり過ごすように、静かにじっと耐え忍ぶように過ぎてゆく。そんな生活の娯楽はやはり世間話だ。なかでも、○○のやつが死んだとか、△△の息子が悪さをしたとか、隣人の生活事情や人間模様を、日がな一日ずっと聞かされ続けた。どんなご家庭を訪問しても、人間模様の話題は尽きず、本当にお互いがお互いをよく知っているものだなと、ある意味感心させられた。狭く変化の乏しいコミュニティ、いわばムラ社会にとって、何よりの楽しみは「話題」なのだと感じさせられる」(171)。

「コミュニティに溶け込むことは、それほど難しいことではない。強いていえば、①現地語の習得、②隣人・知人の名前を覚えること、③コミュニティの内部の人間関係に精通することの3つができれば、どんなコミュニティの壁も乗りこえられるはずである」(172)。

「最近の牧夫たちは、家畜を増やすことに必要以上の執着と熱意を注ぎ込んでいる。富めることと、金を得られることがすべてに優先するという、独自解釈の歪んだ資本主義観が遊牧民の金銭感覚や弱肉強食観と融合した結果、モンゴル人の拝金主義と権威主義、かつ他己犠牲の精神を加速度的に社会に浸透させるようになってしまったのだ」(177)。

家畜個体識別能力の高さ、家畜の分類体系(呼称)の精密さの話。ウマの毛色も、著者の調査によると142色を識別していたそうで、一説では400色の分類があるらしい。

特別な存在としてのラクダ。「ゴビ砂漠の遊牧民とラクダとの関係を表すのに、次の語りほどよく表したものはない。「かつてのラクダの騎乗には、”ウージン”と呼ばれる籠が用いられたよ。このウージンは、草原での燃料となる糞集めのカゴとしても利用されたんだ。ウージンを裏返して台にして、妊婦を横たえて、出産の分娩台にもしたしね。葬儀のときには、裏返したウージンをラクダの左右に載せ、故人をコブのあいだからウージンに横たえて葬送したものだ」」(313)。

[J0588/250705]

中村高康『暴走する能力主義』

副題「教育と現代社会の病理」、ちくま新書、2018年。メリトクラシー論とギデンズの再帰的近代論をくみあわせて、いまの教育システムの機制を論じる。そこそこの抽象度で、具体的な教育の話を求めている人にはあわなさそうだが、論旨明瞭、すくなくとも僕には有益な見方を与えてくれる。

第1章 現代は「新しい能力」が求められる時代か?
第2章 能力を測る―未完のプロジェクト
第3章 能力は社会が定義する―能力の社会学・再考
第4章 能力は問われ続ける―メリトクラシーの再帰性
第5章 能力をめぐる社会の変容
第6章 結論:現代の能力論と向き合うために

「メリトクラシーという近代的なシステムは、前近代的な世襲ないし血縁にもとづく伝統的な地位継承のシステムに代替するものとして登場したが、前近代的な選抜システムほど明確な基準は持てないものであった。なぜなら、社会全体で共通するような能力というものは、抽象的なものでしかありえず、また抽象的能力であればそれは容易には測定しがたいものでしかなかったからである。そして、具体的に世の中を回していくために、学歴や学校の成績、資格といったものを暫定的に「能力」の指標とみなして、それらの保有者を厚く待遇するシステムを構築してきたのが、近代社会の姿だったのである。その意味で、近代社会は、厳格な意味での能力主義社会ではなくむしろ暫定能力主義社会なのである」(162)。

そうしたメリトクラシー社会における「能力アイデンティティ」。この語は、岩田龍子『学歴主義の発展構造』(1981年)で使われていたものを、著者の中村さんが取り上げなおすもの。
「この能力アイデンティティは、さまざまな情報や指標によって確立が試みられるのだが、再三論じているように、決定打となる情報は手に入らないため、つねに揺さぶりをかけられることになる。人々は、仕事や勉強に限らず、さまざまな場面で思い通りに事が運ばない場面に遭遇すると、しばしば「自分には能力がないんじゃないか」という問いを自らに発するようになる。これは人により、状況によって程度や質の差はあるが、おしなべて近代社会に生きる人々に共通する不安である。このような不安を〈能力不安〉と呼ぶことができる」(167)。

就活における「学歴フィルター」言説の話から、「再帰的な学歴社会」という話。
「しかし、ここで重要なのは、露骨な学歴による選別を「学歴差別」として再帰的問い直しのふるいにかけることが前提となる社会になったという点である。後期近代において、私たちは教育選抜だけではなく、採用や昇進の選抜においても、「学歴だけではダメ」というロジックを前面に出したシステムを作らざるを得なくなっている。本音では学歴信者であったとしても、である。だから、これからの学歴社会はつねに学歴主義批判を織り込んだ、まさに自己言及的で再帰的な学歴社会しか当分の間はつくれないだろう。それはある意味でたいへんにまどろっこしく、婉曲な学歴社会なのだ。だから、常に釈然としない感覚が残り、その学歴社会自体がまた再帰的に問い直されつづけることになる。これが、後期近代におけるメリトクラシーの、いささか不安定な存立機構なのである」(201)。

著者の主張全体からすれば、メリトクラシーとしての学歴社会は、たまたま最近になって再帰的で不安定になったのではなく、本来もともとそういうものであって、その性格が近代性の進行ないし後期近代段階への突入によってより露わになってきたということだろう。211ページに一覧表がある。

メモ:岩田龍子『学歴主義の発展構造 改訂増補版』(1988年)、NDLリンク。

[J0587/250702]

廣田龍平『ネット怪談の民俗学』

ハヤカワ新書、2024年。都市伝説や、こうした「ネット怪談」などをあれこれ取りあげた話を「民俗学」とよぶようになってひさしいが、それはだめでしょう、やっぱり。「民俗学の濫用」に対するダメ出し自体が古いと言われるだろうけども、依然だめなのだからしょうがない。これがもし、メディア研究や文芸研究、社会学といった範疇のなかで、しかるべき方法論ともに書かれているなら問題はないのだが。いじわるな見方をすれば、それができないから「民俗学」の看板を立てている気もする(これは本書著者に対する批判というより、安易に「民俗学」を称する方々一般に対する批判)。

日本民俗学の重要な基盤のひとつは、民俗調査であり、地方文化へのまなざしなわけで、いくら現代社会の趨勢やインターネット空間がそうした契機自体を失わせるといっても、そうした基盤の上に蓄積されてきた先行研究やその方法論に対する正当な位置づけがなければ、「民俗学」という看板の剽窃であり冒瀆になる。消えゆくものに対するこだわりが民俗学にはあったわけで、地域が担う共同体や文化という形態が衰退したから、さあ次の対象に行こうというやり方ではまずいはずである。

一番気になるのは、それが難しいことはよく分かるが、ネット上の情報ばかりいじくっていて、ネットやネット怪談にかかわっている「人」に対して調査におもむこうとしていない点だ。せいぜいがアクセス数の集計。ネットだって具体的な人が使っているわけで、そこになんとかアプローチしようとしないと、民俗学にはなってこない。だから、メディア研究というならよく分かるし、そうであれば文句もないのだ。

こうした事態を生んでいる理由のひとつとしていま想起されるのは、民俗学ということばが、フォークロア(folklore, Volkskunde)という範疇と対応していると捉えられてきたことだ。たとえば、都市伝説やネット怪談をフォークロアと捉えることには違和感がない。だからといって、そのフォークロアを民俗学と訳されてしまうと、ちょっと待てよ、となる。本書のような種類の「民俗学」が、たいていアメリカの都市伝説研究を経由して自己弁護するのはそのせいだろう。日本民俗学が達成してきたことは、実は、folkloreというカテゴリーにはまったく収まらないのである。あとは、柳田に言及しさえすれば民俗学になるみたいなやり方もよくない。

第1章 ネット怪談と民俗学
第2章 共同構築の過程を追う
第3章 異世界に行く方法
第4章 ネット怪談の生態系―掲示板文化の変遷と再媒介化
第5章 目で見る恐怖―画像怪談と動画配信
第6章 アナログとAI―二〇二〇年代のネット怪談

[J0586/250701]