Page 142 of 241

雨宮処凛編著『ロスジェネのすべて』

副題「格差、貧困、「戦争論」。2020年、あけび書房。

序章 ロスジェネをめぐるこの十数年(雨宮処凛)
第1章 ロスジェネと『戦争論』、そして歴史修正主義(対談:倉橋耕平×雨宮処凛)
第2章 ロスジェネ女性、私たちの身に起きたこと(対談:貴戸理恵×雨宮処凛)
第3章 「自己責任」と江戸時代(対談:木下光生×雨宮処凛)
第4章 貧乏だけど世界中に友達がいるロスジェネ(対談:松本哉×雨宮処凛)

奈良の元総理暗殺事件でもまた注目を浴びている「氷河期世代」の加齢、高年齢化。本書、あくまで雨宮さんが体験したかぎりのロスジェネ論ではあるが、それはそれで興味ぶかい。がっつりロスジェネ当事者のひとりとしては、私たちが自己形成をしたころの1990年代の空気感を改めて思い出した。

とくに興味深いのは、ときどき顔を出すジェンダー問題やフェミニズムとの関連性。雨宮さん貴戸さんは、ロスジェネ女性は(あるいは男性もだが)、「主人と妻と子どもという家庭」という理想像を実現することができない境遇に置かれたゆえに、そうした「男らしさ」「女らしさ」の理想を批判するフェミニズムは贅沢にしかみえず、共感が持てなかったのではという。

最後の松本哉さんの話はだいぶ雰囲気がちがっていて。

松本:まあね、20代後半とか30代に差し掛かる頃に、将来について悩むのはいいんですけどね。30過ぎて将来を悩んでも、もう手遅れなんですよ。
雨宮:あ、そうか、もう手遅れなのに何とかしようとしているから、悩みが深くなるのか。
松本:皆さん手遅れですというのを、ちゃんと皆で再確認して、後はやけくそに勝手に生きる。それで、最後にざまあみろと言って死んでいく。これがやっぱりうちらの世代の一番理想の生き方なんじゃないかなと。(237-238)

最後の「理想の生き方」が本当に理想かどうかは別にして、「手遅れ」という認識を出発点にすることは、たしかに大事な気がする。思い返せば、どこまでロスジェネ一般の話か分からないけども、1990年代頃は、世俗の富や出世ばかりガツガツ追いかけても意味がない、というような理念がしばしば将来のヴィジョンとして語られていて、自分を含め、なんとなくそれがそのとおりになったという人も多いのではないか。そのときは、日本社会全体の貧困化までは想定していなかったわけだが。そう考えれば、今になって不遇を大騒ぎするのもどうかという見方もある(他人からそう言われたくはないが)。

「私たちは、一億総中流が崩れた社会を走るトップランナーとも言える」(4)というのは、良くも悪くも、きっと本当。今話題の、独身孤独中年の問題などは、おそらく後の世代が中年になればまた同じ状況になる。いやむしろ、今、団塊世代が逃げ切り世代として冷ややかに語られるときのように、「親が団塊世代だった世代」と、まだ特権が残っていた世代、まだまだ牧歌的だった世代として見られるのかもしれない。現在のヤングケアラー問題なども思い出される。

[J0279/220728]

土橋章宏『いも殿さま』

めずらしく、小説。地元ものだったので・・・・・・。
主人公は井戸平左衛門。
陳腐&野暮な感想だが、どこまでが史実なんだろうか。
著者は『超高速!参勤交代』の人らしく、とても読みやすいね。
以上。

[J0278/220723]

小坂井敏晶『格差という虚構』

ちくま新書、2021年。
読み進むうちに、論に対する嫌悪感が強くなって、ちゃんと読めない。きちんと読めなくなる理由は以下の通り。【理由の1】平等理解や格差論の虚構を滔々と述べるが、相手どっている「常識」の種類(やその理解)が陳腐。凡庸な世論をドヤ顔で論駁しているような印象をもってしまうが、これは僕の方の誤りなのか。【理由の2】同様に、主体なり教育なり格差なり、一連の「虚構性」については、ニーチェでもデュルケームでもゴッフマン(クーリング・アウト論)でもポール・ウィルスでもマイケル・ルイスでも・・・・・・要するに多くの論者が指摘しており、なんなら思想の分野では常識化していること。著者自身もそのいくつかには言及してはいるけど、全体として「今私がこれを発見した」みたいに書くのはどうなのかと。ご本人は、この本の「主張が常識を逆撫でる」など書いているけど・・・・・・(343)。

【理由の3】。あとがきから拾ってみる。「本書を綴った最初の動機は不平等に対するやり場のない怒りだった。株を売り買いしたり情報を集めるだけで巨万の富を稼ぐ企業がある一方で、貧困に苦しむ多くの人がいる。貧乏な家庭に生まれたというだけで将来へのチャンスを奪われる若者がいる。近所の子と同じように誕生日に愛児を祝ってやれない母子家庭がある。極貧の中で孤独死する老人が後をたたない。どうして世界はこれほど不公平なのか。なぜ貧しい国と富める国があるのか」(335)。で、結局提示する思想(の一部)はこう。「格差は絶対になくならない。それどころか、格差が小さくなればなるほど、人間はよけいに苦しむ」(339)。僕に言わせれば、格差が絶対にゼロにならないのは最初から当たり前。でも、このあとがきの最初に触れられているような圧倒的な格差の問題は「程度」こそが決定的に重要なのであって、「格差はなくならない、見かけ上小さくなるだけ」という批判は的外れなだけでなく悪質。程度問題が重要なんだよ。「格差が小さくなればなるほど、人間はよけいに苦しむ」というのは実は正確ではなくて、大きい格差が小さい格差になると、別種の、主に社会心理学的な苦しみが生まれる、あるいはそちらの側面が相対的に強くなるということである。そういう社会心理学的な相対的剥奪論的な苦しみと、圧倒的経済格差による苦しみを同一視して、結果として後者の擁護に回っているのは本当に悪質で、結局僕は、ここに怒っている。俺はマルクスか。「あとがき」冒頭の問題はどうなったわけなんだ、結局。

主体の虚構性の指摘もそれ自体は正しかろうが、格差問題との絡め方が間違っている。丁寧に説明すると長くなって面倒なのでざくっと書くと、格差問題自体が主体の虚構性に立脚しているとして、だったらそれならそれでそこで論を止めて格差問題は放っておくべきだ。平等も格差も誤った問題設定だというなら、「格差問題は解決できない」とこの問題の内部でしたり顔の主張を繰り返すべきではない。

実は『責任という虚構』でも似たような感想を持って、それもあってちゃんと読めていないんですよ。だから上の感想も生半可な暴論かもしれなくて、これらの本の価値を、誰かかっちりと説明してもらえるなら聞いてみたいと思っている。

[J0277/220708]