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志賀信夫『貧困とは何か』

副題「「健康で文化的な最低限の生活」という難問」、ちくま新書、2025年。直球勝負で貧困を問題にする姿勢もすばらしいし、チャールズ・ブースやシーボーム・ラウントリーに遡って貧困研究の系譜を検証している点も好感。貧困問題へのラディカルかつ現実的な取り組みを、あるいは「ラディカルだからこそ現実的である」取り組みを、提唱している。

はじめに ―― 「健康で文化的な最低限度の生活」から考え始める
序章 貧困とは何か?
第1章 生きていければ「貧困」じゃない? ―― 絶対的貧困理論
第2章 家族主義を乗り越えるために ―― 相対的貧困理論
第3章 ベーシック・サービス、コモン、社会的共通資本 ―― 社会的排除理論
第4章 「子どもの貧困」に潜む罠 ―― 「投資」と「選別」を批判する
第5章 「貧困」は自分のせいなのか? ―― 「階級」から問い直す
終章 貧困のない社会はあり得るか?

著者による、貧困理論の歴史的展開の整理。
①19世紀末から20世紀初頭:絶対的貧困理論/肉体的能率が維持できない所得
②20世紀半ば:相対的貧困理論/普通の生活を維持できない所得
③20世紀後半以降:社会的排除理論/幸福追求を阻害する自由・権利の不全

「ブースの貧困調査によって、貧困状態にある人びとの全人口に占める割合が彼自身の当初の予想に反して非常に高いものであることが明らかにされた。そして「真の労働者」を選別的にまなざすことによって、彼らを救済の対象とし、そうでない者を排除した。したがって、ブースの貧困理論は、優生思想に基づく、「選別と排除」を旨とするものであったともいえる。ただし、ブースの貧困理論は、優生思想に基礎づけられていたというよりも、資本の論理が先行していたということには注意を払っておくべきである。つまり、資本による「役に立たない」あるいは「救済に値しない」人びとに対する判断を科学的合理性のあるものとして仕立てあげるために、優生思想が利用されたのである」(49)。

食事・住居・衣服の機能の整理については、著者の『貧困理論入門』。

「差別の実践には、「異化」と「同化」の二つがある」(112)。「「異化」と「同化」は交互に実践されることが多い。「異化」によって序列化を決定的なものとし、「同化」によってその序列を盤石なものとし、非抑圧者に対する支配・統治を維持するのである」(113)。

社会的排除に対する対策としてのベーシック・サービスに関する議論。志賀さんはまず、ベーシック・インカムはそれだけでは有効な対策にならないとみる。ベーシックサービス案は、行きすぎた資本主義としての新自由主義批判にとどまってはならず、資本主義それ自体への批判と進まなければならない。ベーシック・インカム案のように、富の再分配の是正ではなく、貧困を生み出す根本原因である、資本主義の生産関係の見直しに乗り出さねばならない。

貧困がうみだされる根本原因は、資本主義の生産関係の前提となっている本源的無所有にある。「「本源的無所有」とは、人びとが生産手段に自律的な関わりができず、本源的な生存条件から引きはがされている状況のことである」(162)。ただし、共産主義や社会主義によるその克服を考えているわけではない。ここでは斎藤幸平氏の議論が引かれて、「斎藤によれば、例えばソ連では多くの国営企業が存在していたものの、各々の企業の目的は剰余価値を最大化することであり、資本の自己増殖であった。・・・・・・その一方で、労働者たちは自分たちで生産手段を管理すること(自律的な関わり)は許されていなかった」と説明されている(173)。志賀さんが主張しているのは、マルクス主義的貧困理論ではなく、「生産関係論的貧困理論」と称されるものである。

「貧困間の貧困」。「日本人の貧困観は、イギリスやフランスの人びとと比較して貧相である」(136)。「貧困者バッシングや生活保護バッシングは、「働かざる者、食うべからず」という倫理・道徳や、「食べることができているからよいではないか」というような「貧困=絶対的貧困」という限定的な理解から生まれる。これは、イギリスやフランスと比較しても、日本の人びとの連帯が相対的に脆弱であるという問題と関係しているとみられる」(136)。

「子どもの貧困」論の陥穽。「そもそも、「子どもの貧困」という問題設定によって貧困と自己責任論を切り離したところで、「大人の貧困」の自己責任論とはまったく対峙していない。それどころか、子どもの「非・自己責任」性が強調されることで、ネガティブな影響が生じてくる可能性すらある。ここでいう、子どもの「非・自己責任」の本質とは、子どもの貧困は子どもに原因があるわけではなく、その環境に問題があるというものである。そして、この「環境」のなかに親をはじめとした大人がいる。ここで問題なのは、第一に、大人の生活における自己責任が間接的に強調されていること、そして第二に、子どもの生活環境は親がすべて用意するべきものであるという価値規範を内在する「家族主義」から出発しているということである」(139)。→ 「投資アプローチ」ではなく、「権利アプローチ」を、と言われる。

「1980年代以降、「貧困」という概念の拡大の背景には、労働運動だけでなく、女性たちによる社会運動、そしてさらに障害者、黒人など、それまで劣後されてきた人びとの社会運動が多様に展開し、資本主義的生産様式のもので編成された権力関係に異議申し立てを実践している状況がある。もちろん、直接的には、女性は男性への従属に対して、障害者は健常者への従属に対して、黒人は白人への従属に対して異議申し立てをしている。支配してきた集団は、その意義申し立てに対応する責任を負っていることは間違いない。ただし、様々な社会運動はそこだけに終始していない場合も少なくないことにも注目すべきである。それらは差別を徹底的に利用してきた資本に対する批判も展開するようになってきている。・・・・・・このような意味で、現代の新しい貧困問題から出発する貧困理論は、「生産関係論的貧困理論」のなかに位置づけられる可能性をもっている」(189-190)

[J0578/250420]

宮本常一『日本の葬儀と墓』

副題「最期の人生行事」、八坂書房。2017年。宮本常一の膨大な著述のなかから、葬儀と墓関係のものを集めた一冊。注釈のほか、索引も付して、編者・田村善次郎さんのていねいな仕事。

葬儀と埋葬
 死者の取扱い
 真宗と民俗
 埋葬地
 墓地と墓石の起源
  貝塚にみる葬法
  墓 地 
  墓石の起源
 葬儀と埋葬の事例 
  鹿児島県屋久島
  鹿児島県宝島
  鹿児島県内之浦町大浦
  長崎県対馬
  長崎県宇久島
  長崎県頭ヶ島・ロクロ島
  長崎県妻ガ島
  福岡県脇山村
  愛媛県伯方島
  山口県見島
  山口県八島
  山口県東和町長崎
  山口県久賀町
  山口県高根村向峠
  広島県百島
  島根県田所村鰐淵
  島根県匹見上村三葛
  島根県片句浦
  奈良県吉野西奥
  兵庫県鴨庄村
  兵庫県淡路沼島
  大阪府滝畑
  大阪府西能勢
  京都府当尾村
  岐阜県石徹白
  秋田県浅舞町
図説 墓地と墓石
 賽の河原と火葬場 
  賽の河原
  火葬場
 墓地所見 
  埋め墓と詣り墓
  横穴墓
  門中墓
  渚の古墳と石囲いの墓地
  京都鳥辺野の墓と辻仏・厨子仏
  畑の中の墓地・地主様
  古墓様と地主様
  多磨霊園とクリスチャン墓地
 墓石と供養塔 
  板 碑
  地蔵さまと子供墓
  兵隊墓
  夫婦墓
  無縁墓と三界万霊塔
  慰霊碑、 供養塔のいろいろ
 地蔵盆と墓まつり 
  津軽川倉の地蔵祭
  南部恐山の地蔵会
  下北尻労の墓参り
  五島富江の墓まつり

『河内国滝畑左近熊太翁旧事談』より、大阪府滝畑における柿の木の話。「昔は〔死体を〕焼いた。焼く柴は柿の木にきまっていた。だから柿の柴は平生は焚かなかった。縁付き〔嫁入り〕する時、女は柿の木を持って行った。それで村には柿の木が多い。村に入って心にともったのは、深い緑にかくれていた家がまたあらわになってきていることであった。家の丘の櫟林も黄に色づいて半年は散っている。家の裏の柿の木も大方は葉がおちて赤い実が残っているのもあり、もうとってしまったのもある。これら柿は多くは、娘が嫁に行く時、里から持って行ったのだという。やがてその死んだ日、里から持って行った柿の木で焼いてもらうのです。柿の木の成長は、また自らの死の近づくことを意味していた。そうして村人には深い印象をあたえた木であった。それが土葬になってから、柿を持って来た祖母は死んでも木は伐られなくなった。そうして木はだんだんと大きくなって行くのであろう。孫のためにはこれが秋をたのしませるものとなったのである。しかし柿の木を不浄とする心だけは未だこの村にも残っている。ここだけでなく和泉取石などではさらに人をやく木がせんだんになっている。かくて柿、せんだんのような落葉樹の広く忌まれる故はもと火葬の用にしたためではないかと思う。そうしてもとの行事の完全に忘れられる時、いわゆる迷信として人々から抹殺されて行くのであろう。庭の柿の木に火の玉のとまったという話は和泉だけでなく中国四国にもおこなわれているようであるが、これはたまたま屋敷中にある大樹が多くは柿であったという関係だけでなく、あるいは前述の如く、柿が人を焼く木であったというようなところにも多少因由しているものではあるまいか」(147-148)。

『私の日本地図9 周防大島』から、宮本の母親の葬儀の話。「六十をすぎたら、私もふるさとへ帰って百姓をしながら晩年をすごそうと思っていたのだが、その頃から学校へ勤めることになってしまって、まだふるさとへ帰住する目途が立たない。しかし、都会で働きつづけて、一応その仕事を終えた者は、出身の地に家と土地を持っている限りはそこに帰るべきものだと思っている。そして、そこで人生をふりかえって見る生活をすることも、意義のあることではないかと思う」(179)。

『私の日本地図13 萩付近』から、山口県見島の、島外の人の墓。「この島には島に流されて来て死んだ人の墓がいくつもある。たいてい流人であった。・・・・・・宇津には日露戦争の日本海海戦のとき、この島に漂着して死んだ兵士たちの墓がある。島外から来て死んだ人たちを丁重に葬ることによって、島はそういう人たちの霊によって守られるものであると信じられていた」(204)。

『私の日本地図10 武蔵野・青梅』から。「早く死んだ子供たちは親の生きている間は親がまつってくれるであろうが、死んでしまった後は誰もまつってくれることのない無縁仏になる。そこで人の多く通るところや人の目につくようなところに墓をたて、その人たちの手向けをうけて成仏させるようにした。道ばたの地蔵さまや、墓地の入り口になどにならんでいる地蔵様にはそうした親の心が秘められていた」(240)。

『愛情は子供と共に』から。「もともと私は地蔵信仰について深く心をとめたこともなかったのであるが、子を失ってみて、辻々にたつ童形を思い出し、その中に秘められた親心を考えてみようとするようになった。津軽の川倉や深沢、または恐山のように一定の日に親たちの集うて祭をするほかに、京阪の地のごとく行きずりの人の祈願によって子の霊の幸を祈る風も見られた。死んだ童子は本来祖先となるものでない。親たちが死んで行けば祀ってくれるものもない。そのために行きずりの人たちの祈願をいつまでもうけるべく童形をきざんだ石碑に戒名を彫り、また左何右何と名高い寺社の名などを書いて別れ道にたて道標にしたものが多い。古い大阪や京の町を知る人の話によると、そうした道標が実に多かったということである。村内安全を祈るための地蔵堂なども村に必ず一ヵ所は見かけるが、もとは不幸な死をとげた子のためにたてたものが少なくないようである」(242-243)。

『村の旧家と村落組織』1より、兵庫県鴨庄村の三界万霊塔。「無縁仏をまつる三界万霊塔は、この地にも見かけられる。しかし、他地方の如く寺の入口にあるものはなくて、神池寺は境内にこれを見、元禄三年(一六九〇)のもので、在銘の万霊塔としては一番古いものである」(269-270)。

「身辺の中にある歴史」中、「真宗と民俗」という文章も含蓄に富む。石塚尊俊も論じていた、中国と北陸の真宗のちがいにも触れている。著作集13『民衆の文化』に所収とのこと。

[J0577/250419]

草間秀三郎『増補版 B29墜落』

副題「米兵を救った日本人」、論創社。1999年の本に補遺を付して2001年に出版。

序章 いまなぜB29なのか
第1章 背景―米国における対日イメージの変遷
第2章 背景―捕虜の取扱いに見る日本の軍国化
第3章 東京大空襲とB29の墜落
第4章 墜落地周辺の地理・教育・伝統文化
第5章 B29墜落に見る「菊と刀」
第6章 搭乗員遺族の墜落調査への反響
第7章 帝都防衛の迎撃と墜落地住民の証言
終章 真の国際化と国際理解を願って
補遺 見送られた本土決戦―沖縄地上戦の衝撃

東京大空襲のときに旧板橋村(筑波郡伊奈町)に墜落したB29。12人のうち9名が死亡。生存した3名について、村の消防団副団長の方が、乱暴しようとする村人をとどめて保護し、憲兵に引き渡したとの話。その後処刑されたようで、けして美談という感じでもない。

著者は国際関係学の研究者らしい。この調査に費やした労力には敬意を表したいが、話題がとっちらかって研究者の著作とは思えない構成、なんとも読みにくいのが残念。
[J0576/250405]