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『荒木飛呂彦の新・漫画術』

副題「悪役の作り方」、集英社新書、2024年。

第1章 漫画の「基本四大構造」を復習&さらに深掘りする
第2章 超重要! 悪役の作り方の基本
コラム 『ジョジョ』歴代敵キャラについて
「悪役の作り方」実践編 その1 岸辺露伴の担当編集者・泉京香の作り方
「悪役の作り方」実践編 その2 一から悪役を作ってみる
第3章 漫画の王道を歩み続けるために
番外編 『The JOJOLands』第1話とコマ割りについて

歴代の敵キャラの設定の話などしていて、じつはこの漫画にも時代性が強く出ているんだなと。連載開始の1986年はバブルの頃。それがすぎ、1992年の第四部の頃になると、バブルがはじける。「アゲアゲのキャラクター」であったDIOにかわって、「日常に潜むヤバい奴」としての吉良吉影が悪役に。舞台も等身大の日常生活になると。

「冠婚葬祭で「奇妙なキャラクター」を探す」。
「「自分の周りにはキャラクターの参考になるような、おもしろい人はいないなあ」というときは、日常で目にする人たちを深く観察し、見た目や癖、言葉遣い、しぐさなどをとらえていきます。僕のお薦めは、冠婚葬祭での人間観察です。なぜなら、冠婚葬祭のような儀式には、服装や振る舞いなど「この立場の人はこうすべき」「こういう場面ではこう行動しなければならない」というマナーやしきたりがあって、そこから外れている人からは「この人、なんかおかしいぞ・・・・・・?」ということがわかりやすく浮かび上がってくるからです。結婚式に行くと、スピーチで新郎新婦のことはほとんどしゃべらずに、自分の話ばかりしている人、大事なお祝いの場に平然と遅刻してくる人、主賓なのにびっくりするくらいラフな格好で現れる人など、いろいろな「ヤバい人」を目撃します。同じテーブルに座った人たちを観察するだけでも、「この人、全員に料理が配られる前にさっさと食べ始めているぞ」「さっきからパンのおかわりばかりしてるな」等々、参考になりそうなネタが見つかるものです」(146)。

そうそう、この人、人間観察に長けているんだよね。冠婚葬祭とはむしろ、「ヤバい人たち」をあぶりだすための文化装置と捉えることもできる。

「もし、「成り上がっていくために漫画を描こう」「ちやほやされたいから漫画家になろう」という人がいたら、そういうハングリー精神、あるいはアメリカン・ドリームは漫画の世界ではただの幻想にすぎないし、「そんなふうに漫画を描いてなんの意味があるのか?」と聞きたいです。おそらく自分のためだけに漫画を描いていると、自惚れの世界に入っていって、「ちやほやされて嬉しい」とダメなところに足を突っ込んでしまうのだと思います。漫画家になるのであれば、もっと漫画を描くことそのものにちゃんと向き合わないといけません」(179)。
 圧倒的な王道感。教育的な意図もあるかもしれないけど、たぶんぜんぜん嘘ではない。ご本人には当たり前になっているかもしれないけど、受けとる人によってはなかなか厳しいお言葉。

「表紙の絵を描くときは、「せっかく選んでもらったのだから、雑誌の売れ行きがよくなるような絵を描かないと」と力が入りますし、単行本でも「書店で平積みされたとき、隣の並んでいる本に負けたくない」と、一生懸命、表紙の絵を描きます。何が「負け」かというのはともかく、いろいろな本が並んでいる中で「沈んでいる」ように見えるのは嫌なのです」(187)。

たんなる芸術家以上の、漫画という仕事に対するこの絶妙なセンスこそ、荒木先生すぎる。

[J0566/250224]

アマルティア・セン『貧困と飢饉』

黒崎卓・山崎幸治訳、岩波現代文庫、2017年、原著は1981年。

第一章 貧困と権原
 1 権原と所有
 2 交換権原
 3 生産様式
 4 社会保障と雇用権原
 5 食料供給と飢餓
第二章 貧困の概念
 1 貧困の概念に必要なもの
 2 生物学的アプローチ
 3 不平等アプローチ
 4 相対的剝奪
 5 価値判断?
 6 政策上の定義?
 7 基準と集計
 8 結 語
第三章 貧困――特定と集計
 1 財と特性
 2 直接法か所得法か
 3 家族規模と同等成人
 4 貧困ギャップと相対的剝奪
 5 標準的指標の批判
 6 貧困指標の公準的導出とその変形
第四章 飢餓と飢饉
 1 飢 饉
 2 期間のとり方による違い
 3 集団ごとの違い
第五章 権原アプローチ
 1 賦存量と交換
 2 飢餓と権原の失敗
 3 権原アプローチの限界
 4 直接的権原の失敗と交易権原の失敗
第六章 ベンガル大飢饉
 1 概 略
 2 食料供給の危機か?
 3 交換権原
 4 困窮化の階層的基盤
 5 交換権原の極端な変化の原因
 6 政策の失敗における理論の役割
第七章 エチオピア飢饉
 1 一九七二〜七四年の飢饉
 2 食料供給量
 3 ウォロ――輸送の制約か,権原の制約か?
 4 生活困窮者たちの経済的背景
 5 農民の貧窮と権原
 6 牧畜権原と遊牧民
 7 結 語
第八章 サヘル地域の旱魃と飢饉
 1 サヘル地域,旱魃,そして飢饉
 2 FAD 対 権原
 3 困窮と権原
 4 政策上の諸問題
第九章 バングラデシュ飢饉
 1 洪水と飢饉
 2 食料輸入と政府備蓄
 3 食料総供給量の減少?
 4 被災者の職業分布と困窮化の度合い
 5 労働力の交換権原
 6 焦点に関する疑問
第一〇章 権原と剝奪
 1 食料と権原
 2 貧困層――正当な範疇?
 3 世界の食料供給と飢餓
 4 市場と食料の移動
 5 権原の失敗としての飢饉
講演 飢餓撲滅のための公共行動(1990年)
訳者解説 『貧困と飢饉』――その後の研究

一言でいえば、飢饉の原因を食糧不足に求める見方(FAD: Food Availability Decline)を批判して、所有関係をふくむ権原(entitlement)の関係にそれを求める権原アプローチを提案する書。また、センからすれば、貧困層という括りもまたあまりに大雑把すぎ、公共政策を歪めることで問題解決を遠ざけかねないものである。

FADは食糧が人びとにゆきわたる過程のことをまったく見過ごしてしまっており、飢饉の実態にも即していないとされる。つまり、多くの飢饉において、食料の総供給量の減少はみられていない。センはそのことを、ベンガル、エチオピア、サヘル、バングラデシュの事例から示しており、歴史経済学とでも呼べるような分析を展開している。

「事実、多くの飢饉において、飢饉が猛威を振るっているさなかに、飢饉に見舞われた国や地域から食料が輸出されつつある、との苦情が聞かれた」(259)。「権原の観点から見ると、飢饉に見舞われた地域からほかの地域に食料を持ち去るように市場メカニズムが働くことには、何の不思議もない」(260)。

以下は講演の章から。まず、「権原の失敗としての飢饉」。
「必要とされる金額の大きさを直観的につかむため、例えば潜在的な飢饉の犠牲者がある国の総人口の10%だとしよう(飢饉は通常、これよりはるかに小さな割合の人々に影響を与える)。平常時において総国民所得に占める彼らのシェアは、一般にGNPの約3%を超えることはないだろう。したがって、ゼロから始めて彼らの所得全てを回復させる、もしくは彼らの通常の食料消費を再供給するために必要な資金は、予防策が効率的に組織されれば、それほど膨大となる必然性はない」(291)。
 飢饉の犠牲者となる人びとは、経済的な面からみればごくシェアの小さな層だが、ほかの層の人びとがそこに関心を寄せないことから飢饉は生じる。「食糧危機」なるのものによって自動的に不可避的に生じるような現象ではない。
 このことと並行して、飢饉の脅威に対する社会的注目が重要だとされる。「世界における飢饉の過酷な歴史の中で、検閲を受けない報道が許された民主的な独立国家において飢饉が起こった事例がほとんどないことは、実は驚くべきことではない」(302)。「検閲を受けないニュース・メディアの活発な活動は、餓死の事例を早期に報道することによって、差し迫った飢饉の脅威について政府と公衆に警告するという、非常に重要な役割を果たすことができる。そうした報道はしばしば、断固とした公共行動によって阻止されなければ将来訪れることになる事態を、説明の余地なく示す役目を果たす」(303)。

ひとつ、危機にある人びとのことを報道するメディアがあること。もうひとつ、そのメディアの報道に感じて、公共政策につなげる人びとの動きがあること。

[J0565/250222]

立岩真也『良い死/唯の生』

ちくま学芸文庫、2022年。2008年の『良い死』全体と、2009年の『唯の生』第5章以降を収録とのこと。

第1部 良い死
 序章 要約・前置き
 第1章 私の死
 第2章 自然な死、の代わりの自然の受領としての生
 第3章 犠牲と不足について
第2部 唯の生
 第1章 死の決定について
 第2章 より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死
 第3章 『病いの哲学』について
おわりに
解説(大谷いづみ)

「自分で決めるということ以前は状況なのです。また自分で決めることが仮にかたちの上で可能になったとしても、〔・・・・・・〕結局生きていこうとするとその負担がご家族に集中的にのしかかってしまうことがあって、それが患者に生きるのをやめてしまった方がよいのかと思わせてしまうということです。普通の自分にとってよいこと、自分が生きるために自分が生きやすいために必要なことを選ぶという意味での自己決定が可能であるためには、可能であるための状況・条件がなければならないのですが、それが決定的に不足してきたのが今までの私たちの社会であったのだと思うのです」(38)。

「尊厳死は、合理的なものであり、因習を排するもの、近代的なものであると言われることがある。例えば、さきの太田典礼という人物にとっては、宗教を排すること、葬式を排することは近代的なことであり、尊厳死もまたその線の上に並ぶことになる。ある状態の人間を生きていると考えるのは、またある状態の人間を生きたままにするのは「迷信」であるとする。この論理にはよくわからないところがある。もちろん、なにを死としどのように遇するのかは事実認識の問題ではないからである。しかし、「絶対的生命尊重」を宗教、盲信の側に置くのであれば、それを排するのは合理的であり、近代的であるということになる」(69)。これのあと、「他方で尊厳死は自然に結びつけられるものでもある」と続く。

「しかしまず、「延命」のための行ないにおいて、そうおおげさなことが行われているわけではない。ことを冷静に考えるなら、呼吸や循環の補助、動力の供給に関わって必要なものはなにほどのものでもない。他方、それ以上に高等な機能については人間によって製造される物体によっては代替できていないから、そもそもそれで人を生きさせることはできない。これだけのことしかこの世には起こっていない。そうして、せいぜい、普通に長生きする人ぐらいまで生きていられるようにしようというほどのことである」(185-186)。

[J0564/250220]