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ジル・ドゥルーズ「追伸」

副題「管理社会について」、宮林寛訳『記号と事件:1972-1990年の対話』河出文庫、2007年所収、356~366頁。訳本の定本は1992年。この論考自体は1990年発表。

〔規律社会〕
● 18~19世紀、20世紀初頭に頂点。第二次世界大戦後に壊滅。
● 監禁の環境を組織し、個人は閉じられた環境から閉じられた環境へと移行をくりかえす。家族、学校、兵舎、工場、ときどき病院や監獄。
● 「しかしフーコーは、規律社会のモデルが短命だということも、やはり知り尽くしていた」(357)。

〔管理社会〕
● もはや、あらゆる監禁の環境は危機に瀕している。「管理」とは、バロウズが提案した呼称。
● ゼロからやりなおす監禁環境の変移とは異なり、管理機構では変移は分離不可能。
● 工場には、企業が取ってかわる。「企業は、工場よりも深いところで個々人の給与を強制的に変動させ、滑稽きわまりない対抗や競合や討議を駆使する恒常的な準安定状態をつくるのだ」(359)。
● 「工場は個人を組織体にまとめあげ、それが群れにのみこまれた個々の成員を監視する雇用者にとっても、また抵抗者の群れを動員する労働組合にとっても、ともに有利にはたらいたのだった。ところが企業のほうは抑制のきかない敵対関係を導入することに余念がなく、敵対関係こそ健全な競争心だと主張するのである」(359-360)。
● 「じじつ、企業が工場にとってかわったように、生涯教育が学校にとってかわり、平常点が試験にとってかわろうとしているではないか。これこそ、学校を企業の手にゆだねるもっとも確実な手段なのである」(360)。
● 「規律社会では(学校から兵舎へ、兵舎から工場へと移るごとに)いつもゼロからやりなおさなければならなかったのにたいし、管理社会では何ひとつ終えることができない」(360)。
●「規律社会と管理社会の区別をもっとも的確にあらわしているのは、たぶん金銭だろう。規律というものは、本位数となる金を含んだ鋳造貨幣と関連づけられるのが常だったのにたいし、管理のほうは変動相場制を参照項としても、しかもその変動がさまざまな通貨の比率を数字のかたちで前面に出してくるのだ」(361)。
●「昔の君主制社会は、てことか滑車とか時計仕掛など、シンプルな機械をあやつっていた。ところが近代の規律社会はエネルギー論的機械を装備し、受動的な面からいうとそこにはエントロピーの危険があったし、能動的な面では怠業の危険をともなっていた。管理社会は第三の機械を駆使する。それは情報処理機器やコンピューターであり、その受動面での危険は混信、能動面での危険はハッキングとウイルスの侵入である」(362)。
● 「いまの資本主義が売ろうとしているのはサービスであり、買おうとしているのは株式なのだ。これはもはや生産をめざす資本主義ではなく、製品を、つまり販売や市場をめざす資本主義なのである」(363)。

[J0549/241214]

ジークムント・フロイト「喪とメランコリー」

十川幸司訳、講談社学術文庫『メタサイコロジー論』、2018年所収。訳者解説によれば、本論文「喪とメランコリー」の初稿は1914年に書かれ、論文として発表されたのは1917年。なお、タイトルにもある「喪」は、ドイツ語Trauer の訳。

グリーフ研究の出発点ともされる本論文だが、喪よりもメランコリーに重点がある。「今度はメランコリーの本質を喪という正常な情動との比較を通して明確にすることを試みようと思う」(131)って冒頭に書いてあるやん。というか、論の全面を通して、そもそも治療のことよりも、人間精神を把握したい、そのための概念をつくりたいという関心が勝っているように思われる。喪のことは、そのための一材料にすぎないという印象。

メランコリーとは、正常な情動である喪の、ある種の逸脱形態である。「正常な状態とは、現実に対する尊重が勝利を保つことである」(133)と言われる。フロイトは内的な精神世界の探求者とみなされてきたし、それが嘘というわけでもないだろうが、ここでは、ごく常識的なかたちで現実/非現実を区別しているようにみえる。現実なるものの境界の曖昧さを意識しているようには思えない。

メランコリーには、対象の喪失、両価性、自我へのリビドーの対抗という3つの条件があげられている(152)。対象の喪失だけならば、喪と共通しているというわけだろう。

「メランコリー患者には、さらに常軌を逸した自我感情の低下と顕著な自我の貧困化が生じるが、喪の場合にはそのような特徴は見られない。喪の場合は世界が貧しく空虚であるが、メランコリーの場合は自我それ自体が貧しく空虚になる」(135)。

メランコリー患者に見られる自己避難について。「自己批判を、愛する対象への非難が方向を変えて患者の自我に向けられたものと理解するなら、私たちはメランコリーの病像の鍵を手に入れたことになる」(138)。「リビドーは、そこで自由に使われるのではなく、放棄した対象を自我に同一化させるために用いられる。・・・・・・対象喪失は自我喪失に変わり、自我と愛する人との葛藤は、自我批判と同一化によって変化した自我の内的分裂に変わったのである」(140)。

「喪は自我に対象を断念させるために対象の死を明らかにし、生き残ることの利得を自我に示す。それと同様に、メランコリーのあらゆる両価性の葛藤は、対象に対するリビドーの固着を緩めるために対象を貶め、価値を落として、いわばそれを打ち倒すのである」(151)。

実は、喪については上に挙げたくらいのことしか書いていない。少なくとも本論文において、フロイトにおける喪の概念は、メランコリーという症状を検討するために引きあいに出されているものであり、探究の対象ではなく最初から前提されているものにすぎない。フロイトの探究のまなざしは、メランコリーやヒステリーといった歪んだかたちの精神現象に向けられているが、それは、その歪み方を通じてこそ、表面からは隠された心理的メカニズムがみえてくるという発想にもとづくものではないか。わざわざ、「喪という正常な情動」を取り上げるのではなくて、メランコリーの方を主題として取り上げようとする問題設定のしかたにそうしたフロイトの発想法を感じる。

[J0548/241213]

満薗勇『消費者と日本経済の歴史』

副題「高度成長から社会運動、推し活ブームまで」、中公新書、2024年。「消費者的態度」の浸透は、現代社会の動向を理解するための鍵のひとつで、このような社会史的な研究も大事。

序 章 利益、権利、責任、そしてジェンダー
第1章 消費者主権の実現に向けて―一九六〇年代~七〇年代初頭
 1 高度経済成長と消費革命
 2 消費者主権という理念
 3 日本消費者協会とかしこい消費者
 4 ダイエー・松下戦争の構図
第2章 オルタナティブの模索と生活者―一九七〇年代半ば~八〇年代半ば
 1 石油危機後の日本経済と生活の質
 2 生活クラブの消費材
 3 大地を守る会と有機農業運動
 4 堤清二のマージナル産業論
第3章 お客様の満足を求めて―一九八〇年代後半~二〇〇〇年代
 1 長期経済停滞への転換と消費者利益
 2 顧客満足の追求とそのジレンマ
 3 セブン-イレブンにとってのお客様
 4 お客様相談室の誕生
終 章 顧客満足と日本経済―二〇一〇年代~
 1 現代史から見えたもの
 2 新たな潮流―エシカル消費、応援消費、推し活

消費者の利益、消費者の権利、消費者の責任という三つの観点を軸にしつつ、次のような時代区分のもとに構成されている。
1960年代~1970年代初頭:消費者という言葉が社会的に定着していく時期
1970年代半ば~1980年代半ば:消費者に代わって生活者という言葉が使われるようになった時期。
1980年代後半~2000年代:企業レベルではお客様という捉え方が広がっていく時期。

「1960年代の消費革命のなかで、買物上手たるかしこい消費者の育成が、有効な面をもったことは間違いない。主婦による消費者としての主体的な対応が、固有の歴史的役割を果たした意義は強調されるべきである。家庭でのケアを果たすべく、消費の専門家たることを期待された主婦が、自負とやりがいを持って幸福な生活の実現に努力したことは、消費革命に伴う不安や不安定さを緩和していく意味をもったであろう。しかし同時に、かしこい消費者という規範は、権利なき主体化を促す規範として作用した。そもそも消費者が企業との関係で構造的な弱者であるという事実は、その規範の作用によって見えにくいものとなる。」(52)

1990年代以降の消費者団体の退潮、「消費者団体の退潮は、アマチュア女性によるボランタリーな活動の限界によるところが大きかった。消費者=主婦という認識に依拠してきた活動のあり方は、男性を運動に引き込むことを妨げ、たとえば主婦連が規約改正で男性の入会を認めたのは、ようやく2000年になったからであった」(160)、また「消費者問題が高度化・複雑化するなか、運動の側にも高度な専門性が不可欠になっていたのである」(161)。

「お客様という言葉には、①消費者=主婦という固定化された消費者像を相対化すること、②対抗的な利害をもつ機能集団ではなく、情緒を含んだ生身の人間として対象をイメージすること、③権利や責任の主体としてではなく、もっぱら企業の顧客としての対象を捉えようとすること、という三つの意味が含まれていたと言えよう」(175)。

「顧客満足(CS)という理念の広がりは、そうした歴史的文脈のなかで、サービス経済化の進展に対応する意味をもった。しかし、そこでの満足が社会的に見て望ましいかどうかはさしあたり視野の外に置かれ、企業は顧客の不満や非満足の改善に注力した。それは、消費者利益の複雑な内実に向き合うことを棚上げする国民経済レベルの発想と、表裏一体であったと考えられる」(219)。

具体的に取りあげられている人物は、暮らしの手帖の花森安治、ダイエーの中内功、松下電器の松下幸之助、生活クラブの岩根邦雄、有機農業の一樂照雄、パルコや無印良品の堤清二、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊、セブンイレブンの鈴木敏文など。

この分野の重要文献として、原山浩介『消費者の戦後史』(2011年)が挙げられている。

[J0548/241213]