弘文堂、2002年。十数年、積ん読状態だった本だが、ヤン・プランパー『感情史の始まり』(2020年)の書評を書くことになった流れで手に取ってみた。著者については、大昔に読んだ『ブッシュマンとして生きる』が良書だったことで記憶していたが、論争的な部分も含む本書は、それともずいぶんちがう印象の1冊。

序章 経験の直接性から
第1部 猿 
  第1章 崖の上のハレム
  第2章 サルから見た世界 
  第3章 表情をおびた身ぶり 
  第4章 森の神の興奮
第2部 人 
  第5章 怒りと首狩り  
  第6章 言説の政治学 
  第7章 感情生活の弁証法 
  第8章 仲間であること
終章 感情、共生のエンジン

プランパーさんによる感情研究史の整理は、社会構築主義 vs 普遍主義(本質主義)という対立を軸に、哲学や人類学にまで目配せをしている。しかし、彼の関心の所在はあくまで歴史学や、歴史学的な史料の操作や解釈にあって、その対立問題自体を追究するものではない。「感情史」ブームはおそらく一般にそうであって、「感情とはいかなるものか」という問いに立ち入るならば、この菅原さんの本が扱っているような問題圏に突入するはずである。

この『感情の猿=人』という本の魅力は、本格的なサル学の研究と、文化人類学的研究をシームレスに横断する視野で、これこそ本当に自然科学と人文学の架橋だと言えよう。ここに、しゃらくさい種類の社会構築主義が入りこむ余地はない。一方で著者は、サルを行動主義的に理解できるとする立場をも説得力あるかたちで拒絶して、そこに「意志」が存在することを、したがってサルもまた実存としての存在であることを強調している。ここではメルロ=ポンティの哲学が、じゅうぶんに必然性のあるかたちで基盤に据えられている。

ただ、脳神経科学や進化心理学の還元主義や機能主義が強く批判されているとしても、著者はそれら全体を拒絶しているわけではない。

「脳神経科学は、わたしたちの生を支える祝福の大半が「自己意識」よりもずっと深いところで成しとげられているという恐るべきヴィジョンを突きつける。それこそは、「身体化された心」の理論が認知的無意識とよぶものとぴったり重なりあう。それはまた、メルロ=ポンティが「私の基底に存在するもう一つ別の主体」あるいは「無記名の機能系」とよんだ何ものかを連想させる」(336)

こうして著者は、機能を唯一の動因とみなす進化論を拒絶しつつ、生存に有害な形質の淘汰を経たユニークで多様な実存の現実化としての「祝福としての進化」というヴィジョンを提示するのである。

この本は、英訳されて世界で広く読まれるべきだと思う。それと、タイトルがもったいなかったのでは。「猿=人」は「エンジン」とかけているそうだが、そんなの分かるわけがないし、エンジンと分かってもなおしっくりとはこない。もったいない。

[J0216/211130]