河出文庫、1990年、原著1970年。

日清戦争
 1 「小国」の焦慮
 2 「義戦」の構造
 3 軍国の狂躁
「臥薪嘗胆」
 1 栄華と悲惨
 2 尚武と煩悶
 3 北清の屍
日露戦争
 1 諜者の群
 2 開戦の渦
 3 兵士の相貌
「愛国」の重荷
 1 ああ増税
 2 戦時下の村
 3 深まる亀裂
明治の秋
 1 勝利の悲哀
 2 病める「一等国」
 3 荒廃の淵で

日清戦争が 1894年7月から95年4月、後に三国干渉。日本社会では、足尾銅山関係の動きがあったり、横山源之助が『日本の下層社会』を出版したり。日露戦争が 1904年2月から05年9月まで。後にポーツマス条約に日比谷焼き討ち事件。東北大凶作。

アジア太平洋戦争とそこでの敗戦との対比から、栄光の歴史として語られがちな日清・日露戦争、しかし戦争はやはり「民衆にとり、生活の基盤を根こそぎつきくずす衝撃波」であったことを、当時の庶民生活を辿って描き出した書。

キリスト者は国家への赤誠を示すように戦場を慰安にかけめぐる。新型コロナよろしく、戦争は、鍛冶屋や洋服屋といった特定の業種には戦争景気をもたらしたが、無関係な業者には不景気をもたらすとともに、生活必需品を値上がりさせる。また、日清戦争は、糸や布などを自給していた村々の生活様式を一変させた(83-84)。

日清戦争後の社会では「武士道」が説かれ、薩摩隼人のバンカラ風が流行したが、それは稚児さん趣味、美少年趣味の隆盛をともなうものだったという(95-96)。

日露戦争は、ニコライをはじめとする正教に苦境をもたらしたが、政府は努めて彼らが迫害を受けないように諸策をとったという。「政府のこうした態度は、戦争がキリスト教国に対する挑戦とうけとられ、ある種の「宗教戦争」化することへの懸念によっていた。もし、「宗教上ノ争ニ起因スルカノ観念ヲ惹起」したならば、欧米の同情、いうなれば世界の同情を日本は失わねばならなくなるからである。それは日本の敗北を意味した。とくに、ロシアが日露戦争をキリスト教国と非キリスト教国の戦争として、世界世論に訴えていただけに、日本は神経質なほどこまやかな配慮をしなくてはならなかった。そのため宗教のみならず、言論思想活動についてもある程度の「自由」を保障したのである。すなわち、政府は別記のような社会主義者の反戦平和運動についても、その「活動」をある程度まで許容する態度をとらざるをえなかった」(142)。ふーむ、なるほど。日本近代宗教史にとってはもちろん、社会主義運動史にとっても重要な指摘。戦時のキリスト者の「活躍」の背景でもあるか。

日清と日露でもまたちがって、農村への管理はより強くなったようだ。勝利の華やかさがよく目立ってきた一方で、戦時下・戦後の庶民生活には貧困や怒り、倦怠や退廃が強く漂っていたことがわかる。

[J0219/211216]