松浪信三郎訳、人文書院、1951年。原著は1943年。長らくこの版がスタンダードだったけど、2007年にちくま文庫版が出ていたね、そういえば。3巻通読するのにいつまでかかるか分からないが、とりあえず緒論でノートを。

緒論 存在の探究
I 現象という観念
II 存在現象と現象の存在
III 反省以前的なコギトと知覚の存在
IV 知覚されることの存在
V 存在論的証明
VI 即自存在

なるほど、一世を風靡した理由も分かるような気がする。一般論として言えばそりゃ難解ということになるのだろうが、フッサールやハイデッガーとはちがったポップさがある。レイモン・アロンが「現象学者だったら、このカクテルについて語れるんだよ」と述べてサルトルを感動させたというエピソードを思い出したが、この言葉は、現象学一般にというより、ほかならぬサルトルの哲学にこそふさわしい、なんていう第一印象。

サルトルはまず、カント流の、現象と真なる存在(正確にはたんに存在)との二元論を否定し、あらゆる「背後世界」の想定を斥ける。ただし、存在は本質でもない。本質は対象が有する諸々の性質のひとつであり、対象の「意味」であるが、存在はそうしたものではない。本質は現象の一部だが、存在は現象ではない、と言ってもいいだろう(ただし、厳密さを求めるなら、サルトルにおける現象という用語の意味についてはさらに要精査)。

ハイデガー流のしかたと同様に(おそらくはそれに倣って)、サルトルの理解にあっても、人間意識こそが存在の成立に重要な役割を果たしている。それはある種の循環的構造をもっていて、「意識しているあらゆる存在は、存在することの意識として存在する」と言われる(I: 29)。しかし、ハイデガーと袂を分かつのは、無と人間意識との関係に関する理解についてである。「意識は無に先だつものであり、存在から〈自己をひきだす〉」(34)。

存在が、人間意識との関係のうちに成立基盤を有している(すくなくとも緒論までの行論において)として、現象の存在は「知覚されること」のうちに「宿る」のであり、したがって存在とは相対性と受動性という特徴を有している。受動性については説明不要だとして、相対性とは「知覚する者の存在と相対的」ということであり、このことには、対象となっている存在が、知覚する者の存在に還元されないということも含意されている。すなわち、存在は人間意識と「相対的」ではあるが、人間意識に還元されるものではなく、この意味にかぎっていえば、自体的に――「即自的に」――存在してもいるのである。だから、現象の存在は、単純に「知覚されること」と同一なのではない。ここでサルトルは、意識/現象の継起のなかに存在を還元できたと認める種類の現象学を批判する。現象学的還元によって説明できるものは、存在のしかたであって、存在ではない。逆に、人間意識の側についても、それはつねに何ものかについての意識であると言われる。つまり、意識はつねに、それとは別の存在を「巻き添えにする」。

ここまでくれば、次の定式の意味もだいたい理解できるだろう。「意識とは、それの存在が本質を立てるような一つの存在であり、また逆に、意識は本質が存在を含むような一つの存在についての、すなわちその現れが存在を要求するような一つの存在について、意識である」(47)。

このようなサルトルの存在理解は、意識の存在と現象の存在というふたつの問題圏をもたらすことになる。

以上、緒論のメモだが、すでに、サルトル哲学の基本的洞察はこのなかに提示されているように思われる。まだ残り、読んではないけど・・・・・・。

[J0332/230131]