PHP研究所、2016年。

[内容]
死なない生物と死ぬ生物
ほんとうに私は一人しかいないか
現代哲学としての仏教―どうしたら本当に死ねるか
鬼神論と現代
霊魂の離在、アリストテレスからベルクソンまで
私をだましてください
他人の死と自分の死
人生は長すぎるか、短すぎるか
世俗的来世の展望
どこから死が始まるか
人生の終わりの日々
胃瘻についての決断
往生伝と妙好人伝
宗教と芸術
人生の意味のまとめ

日本を代表するヘーゲル研究者であり、精彩に富んだ文章でヘーゲル哲学を表現してきた著者。しかし、その著者をもってしても、死という主題を前にはこんな感じの、厳しく言えば、よくある感じの本になってしまうのね。死にまつわる古今東西の本を渉猟していくというスタイルだが、加藤さんには加藤さんご自身の、死の思想をもっと綿密に示してほしかった。本書の結論部分は「「どうして死ぬのですか。」「それが自然だから。」――それ以上の答えはない」(236)という具合で、これではちょっと。以下、部分的に気になった箇所について。

「死が美となるという思想は、中国にもインドにもないように思われる。「美しい死」という思想は日本的である」(90)。そういえば、こういう言い方も成り立つだろうか? もし成り立つとすれば、かなり重要。

「父母の思い出は子どもにとっては一生涯つづく「お守り」のようなものである」(102)。うまいこと言う、という言い回しとして。

「お金について選択の自由が成り立つのは、お金の有無で私の状態が変わらない、同じ私であり続けることができるからである。・・・・・・しかし、命や手足や目やこころの場合、それを持つときと失った後とで、同じ人格が存在し続けるとは言えない」(168)。ふむ。

「詩とは、瞬間を永遠とする魔術である。詩があれば、永遠を宗教から借りてくる必要がなくなる」(223)。ふむふむ。

「若い時に甲子園の野球に出場して負けたという人に、「負けたんだから、出場しない方が良かったですね」と言ったら、「負けたけれど出場して良かった」と答えるだろう」(226)。なるほど、この言い回しは今後、使わせてもらいたい。

[J0331/230130]