岩波書店、2022年。

第1章 死者を送る、死者を悼む
第2章 遺された側の想い
第3章 死者の世界へ
第4章 なお残る死者への想い
第5章 使者とその霊魂
補章 能楽―負の他界の死者

1ページ1ページ読んでいって、読み通すのにたいへん時間がかかった。というのは、とくに第1章から第4章まで、奈良から鎌倉初期あたりまでの主だった歌集や文芸作品から、死や死別に関連する和歌や文章を列挙した撰集のようになっているからだ。ひとつひとつの歌に、生死の巡り合わせを考えてしまう。古代日本の人々の心に親しく触れることのできる和歌集・文集として読めば、一家に一冊ものでは。

 高山と 海とこそば 山ながら かくも現しく 海ながら しか真ならめ 人は花物そ うつせみ世人(万葉3332)

 ひと声も君につげなんほととぎすこのさみだれは闇にまどふと(千載集555)

 もろともにながめし人もわれもなき宿には月やひとりすむらん(後拾遺855)

 限あれば今日は脱ぎ捨てつ藤衣果なき物は涙なりけり(拾遺1293)

 思いかねきのふの空をながむればそれかと見ゆる雲だにもなし(千載集550)

記紀・万葉集に古代の人々の死生観を辿る、みたいな本は数多いが、この本の価値は、よくある「つまみ食い」ではなく、網羅的に文献にあたって主題ごとの分類を行っているところ。

第5章や補章では、著者自身による見解も示されているが、いずれも首肯できる。

「往生思想が多くの人にとって、現実には教説に止まる皮相のものであったのではないかという疑いを、私が持つ一つの根拠は、身近な者の死に際して、悲しみや詠嘆の歌は数え切れないのに対して、そもそも八代集には「極楽」という言葉が登場する歌は少なく、極楽とか往生とかを思い浮かべたと考えられるような歌も、ほとんどない点にある」(234-235)

「誤解を懼れずに言えば、日本人一般には死後の世界についての具体的な観念が、ほとんど存在していないのではないだろうか。そして、その中で死後について考える場合、極楽でも天国でも天上でもいいが、そうした現世から遠く離れた世界に、死者が赴くというよりは、我々の身近な周囲の世界に、死者なりその魂なりが存在しているというのが、一般の考え方なのではないかということである。そのような、いわば特定の教義・教説とかイデオロギーとは無縁で、体系的でもなく具体的に細部を伴って描かれることもないような、極めて漠然とした「あの世」、それが日本人の一般的な他界観だったということである」(242)

僕も以前から思っていたが、山本さんの言うとおり、和歌には無常観が濃厚に漂ってはいても、輪廻や浄土のような仏教的な世界観は出てこない。行き場のない死者への想いや、「死者との絆への愛着」(242)が歌われているところは、おどろくほど現在の日本人の感覚に通じている。たとえば、和泉式部が読んだ次の歌。

 なき人の来る夜と聞けど君もなしわが住む宿や魂なきの里(後拾遺575)

大晦日に死者の魂が帰ってくるという風習について、それを信じたい気持ちがああって全面否定するわけではないが、実際には詮ないものと諦めているこの感じ、当時から現代に続く、日本的な死の受けとめ方の一典型だと思う。

[J0366/230516]