アルテスパブリッシング、2011年。

INTRODUCTION  ヒップホップの壁を越えて
第1部 ヒップホップの誕生
第2部 イーストコースト
第3部 ウェストコースト
第4部 ヒップホップと女性
第5部 ヒップホップ、南へ
第6部 ヒップホップとロック
第7部 ヒップホップの楽しみ方

昔、一度読んだはずの蔵書を再読。もう10年以上も前の本となった。欧米にかぎらず、世界のヒットチャートを散見するとヒップホップのテイストが普遍的といいたくなるような普及ぶりなのに、日本ではそうではないと感じていたのがしばらく前、それこそこの本が出版された頃。それが、遠目に見ていて、日本の若者のあいだで最近ヒップホップがまた独特の展開を遂げてきているような。この本をまた手に取ったのはそんな感覚もあって。

ジャズやソウルの「昔ながらの」ブラック・ミュージック愛好家である僕としては、ヒップホップのとっつきにくさを説明してくれている部分に目が行く。たとえば、「ヒップホップは音楽ではない」というくだり。ヒップホップはゲームであると。長谷川さんは、ヒップホップを例えるのに、100%の商業主義の「場」である『少年ジャンプ』、物語がメインにある「プロレス」、ビートたけしに代表されるホモソーシャルな傾向のある「お笑い」を引き合いに出している。

この本がなるほど「文化系」らしいな、と思うのは、ヒップホップの女性差別的な側面を意識しつつ、ヒップホップ界隈で活躍する女性の類型論を紹介しているくだりなど。

ヒップホップとロックの対比という話題では、抵抗の音楽としてのロックに対して、「ヒップホップは正反対なんです。資本主義から締め出されちゃっている人が、資本主義に参入していくための手段として始める音楽だから。「ドロップアウト」ではなく「イン」なんです」(227)と、長谷川さんの言。なるほど、こうしたテイストの対立は、他の大衆文化でもあるかもしれないな。ちょっとさすがに例えすぎな気もするけど、ロックは純文学で、ヒップホップは匿名性の高いTwitterのつぶやきだ、という指摘も(239)。

本書を通読してみて、僕個人としてはヒップホップをヒップホップ的に聴くのは難しいなとおもったが、ポップスとして聴いて面白いものもたしかにあるので、ディスクガイドを手引きにあれこれ触ってみたい。さしあたり引っかかりがあったのは、R. Kerry “Ignition” や Bhusta Rymes “Touch It” など。

本書はアメリカにおけるヒップホップ文化の意味をわかりやすく説明してくれていると思うが、ヒップホップが世界中で人気を得ている理由については疑問として残されている。世界でヒップホップが「受容」されているとき、それがどこまでブラックミュージックとして意識されているかという問題についても。

そうそう、思いつきで思いっきり個人的な好みの話をすると、ニュージーランドの歌手Beneeの曲 “Superlonely” が、今どきでもあり普遍的でもあるような、育ちのいい田舎の女の子の曲という感じで最高だったのだが、最新曲の “Green Honda” は、音楽的にだけ言えばいかにもなギャングスタ気取りのえせヒップホップなポップソングになり果てており、それはそれで愛嬌っちゃ愛嬌なのだが、寂しいなという気持ちもあり、こんなことでもヒップホップ文化の影響力というものを考えたりするわけだ。

[J0365/230515]