副題「賢明な破局論にむけて」、桑田光平・本田貴久訳、ちくま学芸文庫、2020年、単行本2012年、原著2002年。

 日本語版への序文:倫理的思慮の新しい形
 破局の時間
第1部 リスクと運命
 1 特異な視点
 2 迂回、逆生産性、倫理
 3 運命、リスク、責任
 4 技術の自立
 5 係争中の破局論
第2部 経済学的合理主義の限界
 6 予防―リスクと不確実性との間で
 7 無知のヴェールと道徳的運
 8 知ることと信じることは同じではない
第3部 道徳哲学の困難、欠くことのできない形而上学
 9 未来の記憶
 10 未来を変えるために未来を予言する(ヨナに対するヨナス)
 11 投企の時間と歴史の時間
 12 破局論の合理性

時間論についてはベルクソンが、破局論についてはヨナスが、デュピュイの思想のスプリングボードになっている。

「西洋文明を作り上げたキリスト教的伝統において、悪は悪しき意図の帰結としてのみ存在する。・・・・・・ところが、形而上学におけるこのような立場は、現代において維持しえないものとなっている。最善の意図であっても、人間の実行能力が――それが破壊する能力と表裏一体のものだ――ある臨界値を超えてしまうと、破局をもたらしうるのだ」(8)

「迂回の論理」について。「道具的合理性、悪の正当化、経済論理。これらの三つの形式は互いに密接に関連しており、近代的〈理性〉の雛形(マトリックス)をなしているといえる。経済的合理性とはまず、倫理的な経済のことであり、つまり、犠牲の合理的な管理のことである。犠牲とは「生産コスト」であり、つまりは、最大限の純利益を得るのに必要な迂回のことである。私は次のことを主張したい。すなわち、迂回の論理は、実際のところ、近代的な「イデオロギー」の鍵となる要素であり、経済的合理性の核心である」(49)。迂回の論理の問題は、価値合理性と対立してそれを蝕む目的合理性の問題に通じる。

「問題は、われわれはそれ〔破局が生じること〕を信じていないということなのだ。自ら知っていることを信じていないのである。倫理的思慮に対する試練とは、未来に書き込まれた破局の知識の欠如ではなく、この書き込み自体が信用できないということなのである」(179-180)。「予防原則は、障害の本性を完全に見誤っていたのである。科学的であろうがなかろうが不確実性が障害となっているのではない。障害は、最悪の事態が到来することを信じることが不可能だということなのである」(181)。「破局に対する恐怖には、何の抑止効果もないのである」(182)。心理学を超えて、時間性の形而上学に関わる問題。

「人類の産業・経済発展を標的にする破局である核の脅威の場合、防止や効果的な抑止にとって大きな障壁となるのは、生起しないけれども可能であるという現実を、人々が信じていないことなのである。破局は信じられないものなのだ」(256)。

「形而上学は合理性を重視する学問である。形而上学には、諸々の真実がある」(213)。

デュピュイの言う、歴史の時間と投企の時間の区別は、僕の考える事実認識の論理と実践の論理の区別ともオーバーラップしている。

現在、人類が予測不可能な破局の可能性に直面しており、そこでは、制御可能なリスクという発想はむしろ障壁になっているとともに、それに応じて「悪」の意味も伝統的なそれとは根本的に変化しているといった洞察において、デュピュイの議論はきわめてリアルかつ重要である。今回は一読しただけで細部は読み飛ばしてしまったが、時間論や予防論など、もっと集中して読む必要のある箇所が多くある。

[J0379/230701]