講談社学術文庫、2008年、原著1990年。

プロローグ―奇跡の一千年
第1章 ローマ皇帝の改宗
第2章 「新しいローマ」の登場
第3章 「パンとサーカス」の終焉
第4章 栄光のコンスタンティノープル
第5章 苦悩する帝国
第6章 ビザンティン帝国の落日
エピローグ―一千年を支えた理念

通史的な記述、とくに固有名詞になじみがない領域では、あまり詳細すぎてもあまり概論すぎても読みにくいことがあるが、本書はちょうどいい感じ。395年のローマ帝国東西分裂の後、やがて滅びた西ローマ帝国に対して、その後長くローマ帝国を名のりつづけたビザンティン帝国が、1453年のオスマン・トルコに破られるまでの千年間の歴史。

「ビザンティン帝国ほど建前にこだわった国家は少ない。人種的にはギリシア人であり、ギリシア語を用いていながら、ローマ人・ローマ帝国と自称し続けたことはその最たるものであろう。」(23)

コンスタンティヌス(在位306-337)の「改宗」について、筆者はその理由は簡単なことだという。「ローマ帝国とキリスト教が結びついたことは、私には当然のことのように思える。むしろ支配者にとってこれほど都合のよい教えは、他にさがすのが難しいと言える」(49)。

なお、330年のコンスタンティノープル遷都について、コンスタンティヌスがそこで一挙に壮麗な都市をそこでつくりあげたというのは、後年つくられた神話であると。とくに重要なのは、その後1000年の生命を持つことになる、テオドシウス(在位408-450)による大城壁建築であり、また410年の西ゴート族によるローマ陥落は、コンスタンティノープルこそが「新しいローマ」であるという意識を人びとに植え付けることになったという。

532年、ニカの乱。「ニカの乱をひとことでいえば、キリスト教に支えられつつ独裁者への道を歩む皇帝と、古代民主政治の思い出を抱く市民との対決ということになろう」(100)。皇帝ユスティニアヌスの出自は農民であったが、ゲルマン人に奪われた旧西ローマ帝国領を奪回し、大ローマ帝国を再建したいという理想に燃えて戦争準備を進めるが、そのしわよせに対するコンスタンティノープル市民の不満が爆発したのが、当時人びとを熱狂させていた戦車競争を行う競馬場からはじまったニカの乱である。一時は逃亡も企てたユスティニアヌスであったが、最終的には市民の殺戮によって乱を鎮圧。「ユスティニアヌスによって古代の民主政治の伝統は最終的に否定され、ビザンティン専制国家への道が開かれた」(100)。

こうして版図拡大の時代を迎えたビザンティン帝国であったが、ユスティニアヌスが死ぬと、帝国は急速に衰退していく。そこでカルタゴから反乱軍を率いて帝位に就き、救世主となったのがヘラクレイオス(在位 610-641)であった。彼はペルシア遠征に勝利して、エジプトやシリアの奪還に成功する。しかし、彼の栄光は長くは続かなかった。彼がペルシア遠征に経ったその年、ムハンマドはヒジュラすなわちメジナへの移住を行っていた。ムハンマドが死去した2年後の634年、今度はアラブ軍がビザンティン帝国へ侵入しはじめ、ペルシアから奪い返したシリアやエジプトにいたる地方は、イスラームの手に落ちたのである。

717年には、イスラーム軍にコンスタンティノープルが包囲されるが、巨大な城壁、「ギリシアの火」と呼ばれた火器を用いてレオーン3世はこれの撃退に成功。この危機を経て、「キリスト教が人々の日常生活にまで及ぶようになり、キリスト教国家としてのビザンティン帝国が完成する」にいたったという(137)。

レオーン3世の息子コンスタンティノス5世(在位741-755)は、偶像崇拝を厳しく禁じたことで、ずっと評判の悪い皇帝であったという。著者は、これら聖像崇拝論争の背景に、超越的な存在であるオリエント型の神と、人々と似た存在であるギリシア型の神とがあったとした上で、「思い切ったいい方をするなら、キリスト教の神は、オリエント型の神とギリシア型の神の折衷であった」(146)として、両者のせめぎ合いを想定している。

その後、ニケフォロス2世、ヨハネス1世、バシレイオス2世(在位 976-1025)と、ビザンティン帝国は版図を拡大させていき、繁栄の頂点に達する。しかし、バシレイオスが死去すると、今度はまた帝国は衰退の途をたどる。帝国の再建に努めたアクレシオス1世(在位 1081- 1118)が、トルコ人に対抗するために援軍を求めたのが、十字軍との関わりのはじまりであった。その後、そのひ孫にあたるアクレシオス3世(在位 1195年 – 1203)は、宮廷の陰謀で幽閉の身となった際、十字軍に対して、皇帝位奪取の援助の代わりに、即位後に聖地へ向かうための費用を支払うという協定を結ぶ。結局はこの協定を守ることができなかったことがきっかけとなり、1204年、コンスタンティノープルは十字軍によって陥落することとなった。その後、各地での亡命政権としての存続を経て、コンスタンティノープルを奪回するのは、1261年のことである。

ビザンティン帝国の晩年、パライオロゴス王朝時代(1261-1453)のことについて、筆者はあまり多くを記述していない。なにか機会があったら、オスマン・トルコの歴史とともに、これら時代のこともまた読み直してみたい。

[J0392/230814]