副題「「イスラーム世界の盟主」の正体」、中公新書、2021年。

序章 イスラームの世界観
第1章 サウジアラビアの歴史
第2章 国家を支える宗教界
第3章 王室と権力
第4章 石油がもたらしたもの
第5章 過激主義の潮流
第6章 変革に向かう社会
終章 イスラーム社会としての過去、現在、未来

たんにサウジアラビア社会に詳しいだけでなく、宗教の問題一般に通じている著者の手によるところに価値がある解説書。

著者はたびたび、サウジアラビアが他のイスラーム諸国よりも「後発」の国であることに注意を促している。さらに、石油発展を契機とした、大量の出稼ぎ労働者や留学生の流入によるコスモポリタン化。サウジアラビアが「イスラーム世界の盟主」を目ざしてきたのは、こうした逆説的にも見える背景のもとになのであった。

宗教国家と呼びうる側面を多く備えるサウジアラビアについて、著者が留保事項として指摘していることのひとつは、国王の職掌である。もともと、イブン・サウードとイブン・アドブルワッハーブの政教盟約が、この国の原点にある。「国王は多くの権限を持つものの、政教依存という国家体制のもとで宗教は国王の職掌外となる。実際、〔・・・・・・〕統治基本法には国家の宗教についての言及が多く見られるが、国王の宗教への関与を認める条文はない。しかし、関与を認めない条文もまたないのである」(77)。こうした規定のもとにあって、政教依存体制にはゆらぎが生じる余地もある。

過激主義の台頭に対する、国家的な対応に関して。「中東諸国では、20世紀後半の過激主義の台頭以来、「寛容」が重要な政治問題となってきた。寛容に限らず、「穏健」や「中道」といった類似の標語が、過激主義の対極を指す言葉として普及し、過激主義を封じ込めたい各国政府はこれらを政策の方針として好んで用いた」(141)。そして重要な指摘、「そこには政府が許可する「公式」イスラーム言説とその担い手を確立しようとの意図が見られる。つまりここでは、寛容が「他人の言動などをよく受け入れる」新世界の価値観などではなく、「正しいイスラーム」を独占的に形成・所有しようとする、ヘゲモニーの旗印として機能しているといっていい」(144)。おもしろい。

著者はまた、この関連で、「西洋近代の寛容はもとより自己矛盾と呼べる不寛容さを持ち合わせている」(142)と指摘して、フランスを「寛容の暴力化が最も進んだ場所の一つといえよう」としている(143)。「寛容の暴力化」とはうまい表現で、初出は高尾さんなのだろうか、どうだろうか。

「正しいイスラーム」をめぐる攻防に関して。「サウジアラビアは、「人類の文明」といった普遍的価値を対極に据えて「イスラーム国」を批判した。これによって、政府は同組織を過激なテロリストと見る国際社会との足並みを揃えることには成功した。一方、「イスラーム国」をイスラームの観点からどう評価できるのは、すべきなのかという点についてはお茶を濁したといわざるをえない」(150)。

現在、急激な変化や変革を経験し、またそれを誇ってもいるサウジアラビア。「近代化、世俗化、グローバル化など、どれか一つに絞って現在のサウジアラビア社会の変化を言い表すことは困難である。しかし確実なのは、サウジアラビア社会において今やイスラームは、再解釈の対象に含まれているということだ」(190)

[J0396/230907]