おもには家庭の貧困から、習い事や部活、家族旅行といった「体験」をすることができない子ども、「体験」をさせてあげられない親たちがいるという問題提起の書。「体験格差」という言葉はこれから有名になると思うが、「そういえばそういう子どもたちもいる」というところに目を向けさせるだけでも、この書の意味は大きい。講談社現代新書、2024年。

第1部 体験格差の実態
1 「お金」と体験格差
2 「放課後」の体験格差
3 「休日」の体験格差
4 「地域」と体験格差
5 「親」の体験格差
6 体験格差の「現在地」から
第2部 それぞれの体験格差
1 ひとり親家庭の子ども
2 私が子どもだった頃
3 マイノリティの子ども
4 体験の少ない子ども時代の意味
第3部 体験格差に抗う
1 社会で体験を支える
2 誰が体験を担うのか

よく教育社会学業界ではブルデューの「文化資本」論が引き合いに出されるが、その種の議論は「文化資本」を本質的には空虚なものとしか捉えないし、上流階層の告発の方向にだけ流れて、本書がその必要を訴えるような、そうした資本にアクセスできない層に対する、現実の「体験格差」改善への取り組みにはつながってはこなかったように思う。

本書冒頭に、阿部彩『子どもの貧困』から、日本では「子どもが最低限にこれだけは享受するべきであるという生活の期待値が低い」という指摘を引いている。「飢え死にしないだけよい」という謙虚とも貧乏性ともつかない、こうした日本人の生活観が、こうした子どもの事柄だけでなく、福祉や医療における処遇の問題や、あるいはもっと一般的に労働環境の問題にも繋がっている。しかもこの種の生活観が、すべての場面で適応されているのではなく、生活保護が必要な定収入層や、高齢者や病人といった層に対ししばしば選択的に適用されることが問題なのだ。

[J0465/240508]