岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社、2015年)。

近頃『社会学はどこから来てどこへ行くのか』や、芥川賞候補に挙がったことでも話題の岸さんの、ちょっと前に話題になった本。たしかに評判どおりのいい本かもしれないけど、タイトルに「社会学」とあると、業界人としては素直に読めなくなるといういかにも業界的な反応が自分にあって、最初からただのエッセイとして手に取ることができていたらどうだったろうなとおもう。

内容は、日常のさりげない感覚をうまく丁寧にすくいとった文章と、社会学的な啓蒙に通じる文章とが混ざっている。全体に嘘がないように書かれていて良い本なんだけど、一方で人文書の中でこの本だけが妙にもてはやされてしまう状況には、ちょっとなとおもってしまう。でも、この本すら読まれないよりはずっとましだが。

繊細な本という評判だが、むしろ強く断固としたものを感じる。ものごとを決めつけない、決めつけてはいけないと思うことと、決然たる姿勢はけっして相容れないものではなくて、むしろ決めつけないと思い切るという行き方だってある。

以下、部分部分のメモ的に。

「学生の聞き取りで面白かったのが、女性たちがつながりをつくっていくのに、玄関先の植木が一役買っている、ということだった」(p.47)。

田舎だと、自宅の農園で余った野菜だとか、釣りすぎた魚だとかをおすそ分けすることが、独特のコミュニケション回路になっているという風に考えてきたが、町部では植木がね。ふむ。植木だと、マイナー・サブシステンスとは言えないだろうけど。

「ずっと前に、ネットで見かけた文章に感嘆したことがある。こう問いかける書き込みがあった。カネより大事なものはない。あれば教えてほしい。これに対し、こう答えたものがいた。カネより大事なものがないんだったら、それで何も買えないだろ。おお、これが「論破」というものか」(p.195)

これはどっかで話したくなる。それで、「どこで読んだんだっけ・・・・・・」ってなる。だから書いておく。

岸さんは名古屋の出身なのかな? それで大阪市立大なのか。社会学業界でも関西は独特な学風があるようにおもうが、この本も関西だからこそという感じがする。自分のかってなイメージだが、関西では表面的なことばのやりとりは本当に表層的で、それはそれで成立しているコミュニケーションの世界がある。でも、ほんの一枚剥くとより内省的な世界があり、そういう世界があるよねっていうことを多くの人が言わず語りに共有しているという、そういう二重性があるイメージ。ふだん真剣なことを言挙げしにくい空気もあるけど、その分、真剣さが深まる面もあるというような。そういうイメージが、たとえば西成や鶴橋といったディープなスポットの点在する大阪の町並みと、二重写しになっている。まあでも、関西と一括りにしている時点で雑&雑なんで、それこそ関西各地の人の反論を聞いてみたい。

[J0018/190208]