スコット自身の思想も傾聴に値するが、人類学者として東南アジアのフィールドからものを考えてきた人だけに、現代世界の支配的構造に関して示唆に富む指摘も多い。

「ある種の名付け、風景、建築、作業手順の計画がもつ秩序、合理性、抽象性、見取り図的な認識のしやすさは、階層秩序の権力に寄与する。私は、それらを「管理と割当の風景」と考えている。簡単な例をあげると、永続的に父の名を引き継いでいくという名付けは、ほとんど普遍的な方法だが、国家がそれを住民の識別に便利だと見出すまでは世界中のどこにも存在しなかった。この名づけ方は、徴税、裁判所、土地所有制、徴兵制、犯罪捜査の普及、すなわち〔中央集権的な〕国家の発達とともに広まっていった」(42)。スコットは、地元の人にしか通じない、土着の地名の例なども挙げている。地名はともかく、姓名と国家との結びつきの話は考えたことがなかったな。日本では、すぐに「イエの一般的形成」(尾藤正英)のことが想起される。近世、すなわち英語で言うところの early modern (初期近代)段階におけるイエの一般的形成は、各家計の独立であるとともに、(この時期はまだ近世的な形態であったとしても)国家的統治の浸透でもあるわけだ。もちろん、例外なく国民が姓名を持つようになったのが明治だということも、スコットの指摘に沿う。同じ姓が多いということもあるけど、田舎ではいまでも姓ではなく名前で呼びあうという風景も頭に浮かぶ。

遵法ストライキ、遵法闘争(work-to-role)の話、おもしろし。「たとえば、パリのタクシーの運転手は、市当局から課される各種手数料や規制に対して不満を抱くと、熱心に規則を守る遵法ストライキと呼ばれる手段に訴えてきた。彼らは皆で合意し、タイミングを見計らって、突如として道路交通法規に書かれているすべての規制に従い始める。そして、思惑どおりにパリの交通を機能停止に陥らせる」(56)。「どんな職場、建設現場、工場の作業場でも、実際の作業工程は、それを管理する規則からでは、いかに綿密なものでも適切に説明できない。実際の作業は、そうした規則の外部にある非公式の知恵と即興的な対応が効率的だからこそ、やり遂げられている」(57)。これは、社会主義の計画経済が必ず失敗する理由でもある。スコットは、アカデミックな世界において Citation Index による評価を重視することがいかに弊害を生むかを、彼自身のスタイルを破って執拗に述べているが(第五章)、いましがた引用した部分の洞察に基づいてのことだろう。実際の人々の働き方や、職場職場におけるローカル文化のあり方を考えるときに、本当にリアルで重要な洞察だと思う。同様にスコットは、標準化され単純化された製造ラインのことを、「労働力の「愚鈍化」」と特徴づけている(82)。人は職業生活の中でも独立していなければならないし、またその力に信頼を寄せるべきだということだろう。

信頼の問題とも絡む話として、「善の陳腐さ」。この言葉は、フランソワ・ロシャが、アーレントの「悪の陳腐さ」と対比させて使ったものだという(160, Francois Rochat and Andre Modigliani, 1995)。つまり、人を個別に認識したときには、人は彼らに同情を寄せ、助けようとするものであって、抽象的な思想的な主義はせいぜい後付け的なものだという洞察である。だから、個別性を取り戻さなくてはならないというわけである。

スコットの仕事は、国家や資本主義といった支配的システムに抗すべきことを教えるとともに、そのヒントが遠くなにか高遠な領域にあるのではなくて、もっと身近な日常的な実践に潜んでいることを、だからそれを言語化することが大事なのだと教えてくれる。

ジェームズ・スコット『実践 日々のアナキズム』(1)

[J0049-2/200530]