岩波新書、2020年。ヴェーバー没後100年、野口雅弘の中公新書を読んで次はこれと楽しみにしていたのだが、ヴェーバーに対しても、先行のヴェーバー研究者に対しても終始攻撃的で、疲れてしまった。こう否定に満ちた本では、いきおいこの感想も攻撃的になりそうだが、ある程度はやむを得ないのでは。本当はヴェーバー自身のテキストと付きあわせて本書の議論の検証を進めたいところだ。

ヴェーバーの伝記的情報については本当によく調べてあり、勉強になる。とくに従来のヴェーバー像に反するような情報は、彼や彼の思想の再考を促すという意味で有益である。

その上で、しかし、「伝記論的転回」とは大きく出たものだ。「思想とは結局のところ、状況に応じた対機説法にほかならないからである」(226)。もともと、伝記が足りないどころか、ヴェーバーほど数多くの伝記や評伝が作られてきた学者は少ない。たしかに本書は、従来の不十分にしか調べていない伝記に対する批判にはなるだろう。だが、「伝記論的転回」というからには、ヴェーバーの伝記的研究に限るというよりは、その思想の解釈全体を相手取っているのだし、実際、本書の中にはヴェーバーの諸思想に対する評価が数多く出てくる。もしかしたら著者は、ヴェーバーの伝記的事実には一番詳しい人物なのだろう。しかし、そのことが即、ヴェーバーの思想を一番理解していることになるのだろうか。逆に、伝記的事実を知らなければ、テキストを読んでも理解できないのであろうか。本書では、ヴェーバーのテキスト自体の検証をほとんどまったく省略してその評価を行っており、こうした素朴な疑問がどうしても頭に浮かんでくる。新書だからしょうがないのかな。

結論めいたこととしては、著者の到達点として、「伝記論的転回により、私は「主体性」の追究こそ、ヴェーバーの人生を貫くテーマだったとの結論に達した」と述べられている(230)。実はこの結論に関する説明は数カ所にしかないのだが、やはりどうやらそれはたんにヴェーバーの人間像についてだけでなく、理論全体を含めてそう述べているらしいことは分かる。著者に聞いてみたいのは、それならばヴェーバーはなぜもっと「主体性」をまっすぐに中心的課題に据えなかったのか。どうして、それが宗教史なり経済史なり社会科学論なりのかたちをとることになったのか。そうした問いである。さらには、「主体性」という観点からこれらの理論を解釈したとき、社会学ないし歴史学の理論としてどのように意味のある解釈が示されるのであろうか。

著者曰く、「先行研究者には、ヴェーバーの「現代的意義」を説きたいと願うあまり、その時代の知的流行をヴェーバーに過剰に投影する嫌いがあった。そして研究者同士の世代間・個人間の確執も、研究成果に反映されてきたのである。だが近代主義的な第一世代(大塚久雄、丸山真男、青山秀夫、内田芳明ら)も、近代批判的な第二世代(安藤英治、折原浩、山之内靖ら)も、理念先行のヴェーバー解釈では変わりないと、第三世代の私は考えている」(232)。著者の言いたいことは、もっと「ニュートラルなヴェーバー像」「客観的真実に近いヴェーバー像」を描くべきということなのだろうか。だが本書がしている、たとえばヴェーバーの保守的な女性観や西洋中心主義史観をことさらに強調する見方は、2020年現在という「その時代の知的流行」の投影とは何がちがうのであろうか。 現実的には、記述の妥当さとは程度問題――「過剰」であるか否か――であることはもちろんである。しかし、この箇所の著者が、事実と理念の素朴な二分法に対して、十分に距離を取った記述ができていないことは確かである。

いや、確かではない。きっと誤解にちがいない。私は本書の思想を理解できていない。なにせ、著者の伝記的事実をまったく知らないからだ。・・・・・・と、こんな具合に、えらく攻撃的な物言いもしたくなってしまうよ。

[J0050/200604]