ちくま新書、2016年。おお、デジタル・メディア時代の記号論、「デジタル転回」を経た新しいメディア研究の狼煙をあげる。たんに机上で議論をするにとどまらず、「精神のエコロジー」の観点から求められるメディア批評のシステム構築構想という社会実践にまで繋げていく。

第1章 メディアと“心の装置”
第2章 “テクノロジーの文字”と“技術的無意識”
第3章 現代資本主義と文化産業
第4章 メディアの“デジタル転回”
第5章 「注意力の経済」と「精神のエコロジー」
第6章 メディア再帰社会のために

第1章の導入部では、フロイトが、人間の精神活動を補完するものとしてメディアを捉えるメディア論を、マクルーハンに先駆けて展開していたことを紹介している。実はここでも問題になる「無意識」が、著者のメディア論のキーポイントである。

20世紀にはふたつのメディア革命があった。1900年前後の「アナログ革命」と、1950年前後の「デジタル革命」である(p.61など)。前者におけるアナログ・メディアは、機械が文字を書くことに特徴を有する。

著者の発想の軸のひとつ、「機械のテクノロジーの文字と人間の認知のギャップによって、現代人のコミュニケーションは成り立っています。このギャップのことを私は、「技術的無意識(the technological unconscious)」と名付けています」(75)。たとえば映画やテレビなら、一コマ一コマの静止画像が知覚できないからこそ、動画を見ることができる、そうした機制を指している。「メディアの「技術的無意識」を基盤として、現代人の「意識」は成立している」(75)。「私たちは〈テクノロジーの文字〉を読むことができない」(76)。「メディアの役割とは、人間の知覚の閾値より下で文字を書くことによって人間の意識を新たに生み出すことです」(117)。

81ページ、「書物(印刷)の時代」では、人間の意識を経由したものだけが文字になる。「アナログ・メディアの時代」では、機械が文字を書くが、その意味の判断や批判はまだ人間が行う。「デジタル・メディアの時代」では、機械が文字(数字)を書き、その解釈や判断も機械が一部またはすべて代行する、と説明されている。アルゴリズムによるプロファイリングのイメージね。

第3章では、パースによる「象徴 symbol」「類像 icon」「指標 Index」という記号の三分類を手がかりに論を進める。この三者は階層構造を為しており、象徴の側は精神に近く、類像を中間にして、指標の側は身体に近い。象徴の側は文字ないし言語に近く、類像を中間にして、指標の側は像ないしイメージに近い。パースの記号論にはすでに、言語的記号から、情報量の多い画像データ的な記号への移行が暗示されている。129では、著者独自の「記号の逆ピラミッド」の図にまでバージョンアップされる(ここでは略)。

「技術的無意識」をベースにした「文化産業」として20世紀資本主義は展開した。その基本要素は、労働の合理化であるテイラー・システム、生産と消費の循環システムであるフォーディズム、夢と欲望を生産する文化産業の権化であるハリウッド、消費を生産するマーケティングである(90-)。そしてこの果てにある「消費生活では、「生きるノウハウ」を文化産業に預けてしまうことになる」(109)。主体的自由の(再)獲得が、著者にとっての社会的課題のようだ。

文化産業は、グーグルやアップルに代表される、情報産業・情報資本主義へと展開する(なお、こうした流れの中で、ソニーやシャープなどのアナログ精密機器の勝者――つまり日本の諸企業――はデジタル企業の下請けと変ずるとしている=215)。こうした社会状況下にあって、ハーバード・サイモンが論じた「注意力の経済」という概念を受けつつ、著者は、人間の精神活動を有限資源と捉える「精神のエコロジー」問題、さらには「意味のエコロジー」問題を提起する。「各人がそれぞれメディアの生態系をつくり、自分の環境をデザインする。人びとも社会も、そういうリテラシーを自覚的に育てるべきではないかと」(167)。

そのために必要なのは批評とされる。アナログ・メディア時代には批評ができず、情報を受動的に受け取るしかできなかったが、現在のテクノロジー環境下ではそれが可能になったとみる。たとえばニコニコ動画には、その可能性の萌芽がみられると。「どんな方法であれ、メディアを捉え返す回路をつくるということをしないと、意識が生み出されるプロセスをつかまえることができない。そういうリフレクシヴな回路をつくることによって、いままでの受け身だった状況が変わってくるのです」(175)。「メディア社会におけるメディア作用の「批判」は、紙のうえで文字をベースにおこなうカント以来の批判を超えて、批判の活動自体がテクノロジーとして実装される必要があるのです」(239)。

学校について。「メディア再帰的な人間、自ら意識的に注意力の配分をオーガナイズできるような人間を育てていく必要がある」(242)。「学校はかつて、稀少な情報を得るための機関だった。しかしいまはむしろ、氾濫する情報の中で有為なものを選別し、要らないものを捨てていかねばならない社会です。ですからこれからの学校は、情報の過剰に対応する教育を行う場所という役割があるはずです」(242)。

ここで一言、メディアによって「意識」が作りだされるしくみを自覚的に批判するという課題と、注意力や意味の配分を意識的に行うという課題、このふたつの課題はどこまでうまく重なりあうかな? 無意識の領域を意識の領域に還流させるフロイト派的精神分析が、実はまた新たな物語の上書きにみえなくもないことを思い出してしまうなどと書くと、これだけ現実を捉えた提言に対してちょっと皮肉にすぎるだろうか。

さてなお著者は、文字を読む活動が、たとえば本の内容を「どの章のあたり」と位置情報で覚えているように、空間認知と強く結びついたものであって、したがって紙の本がなくなることはないと考えている。むしろ展開が予想されるのは、紙と電子のハイブリッドな読書環境であり、それを整備することが望まれるとしている。

さて、再帰性の問題。アナログ記号がデジタル変換されると、それは数となる。数となると、メディアに双方向性が生じるようになるという。つまり、たとえば、たんに写真を見るだけでなく、写真をみた人の情報を記録・蓄積することができるようになり、それによるフィードバック機能が加わることになる(226-227)。「メディアが情報をまとう」ことになり、プラットフォーム化する(227)。そして「こんどは人間の生活そのものがアルゴリズム化していくということが起こります」(228)。著者はこれを、記号・メディアの再帰化として捉えようとする(228)。なるほど。

実に刺激的な本だが、学史的にも内容的にも引っかかっているのは、マクルーハンの位置。著者は、マクルーハンの見方は「メディアとメッセージとの間に、アナログ・メディア的な固定的な対応関係を想定しています」としている(218)。いやそれはどうかな。本書著者がいう「アナログ・メディアからデジタル・メディアへ」という移行だって、それ自体はメディア決定論にはちがいないのでは。メディアとメッセージとの関係性が固定的ではないのはデジタル・メディアの特徴なわけで、それについてはマクルーハンにも機械的技術から電気的技術への移行という論点をいちはやく提示していたはず。著者は映画やレコードの例を挙げてマクルーハンを否定しているけど、それはマクルーハンにおいては機械的技術だった記憶。だけん、マクルーハンのメディア論一般ではなく、機械的メディアと区別される電気的メディア論の内容を批判するのでなければ、フェアな批判になっていないのでは。いま、おぼろげな記憶でものを言っているから、ちゃんと指摘するならマクルーハンを読み直さにゃいけないのだけど。

[J0078/200821]