屋代通子訳、みすず書房、2012年、原著2008年。長年積ん読状態だったものをようやく手に取って読了。アメリカ人エヴェレットが、約30年にわたってアマゾンに孤立して暮らす部族ピダハンを調査しともに暮らすドキュメンタリーであるとともに、ピダハン独特の言語構造の研究の書でもある。

プロローグ
第一部 生活
第1章 ピダハンの世界を発見
第2章 アマゾン
第3章 伝道の代償
第4章 ときには間違いを犯す
第5章 物質文化と儀式の欠如
第6章 家族と集団
第7章 自然と直接体験
第8章 一〇代のトゥーカアガ──殺人と社会
第9章 自由に生きる土地
第10章 カボクロ——ブラジル、アマゾン地方の暮らしの構図

第二部 言語
第11章 ピダハン語の音
第12章 ピダハンの単語
第13章 文法はどれだけ必要か
第14章 価値と語り——言語と文化の協調
第15章 再帰(リカージョン)──言葉の入れ子人形
第16章 曲がった頭とまっすぐな頭——言語と真実を見る視点

第三部 結び
第17章 伝道師を無神論に導く
エピローグ 文化と言語を気遣う理由

たしかにピダハンの言語や文化は興味深い。色を表す単語もなければ、数の概念がない。儀礼がない。歴史や創世神話の類いもない。ピダハンの原則は、直接見聞したもの以外は語らず、信じないということだ。夢は直接経験だから、夢の体験は現実的である。会ったことのない過去の人物のことは、非現実的である。彼らは精霊の姿を「実際に見る」ので、当然これも信じている。儀礼がないのも、過去の何かを繰り返すことがないからではないかと、エヴェレットは考える。逆にピダハンの言語は、接尾辞で伝聞・観察・推論を区別しており、直接体験か否かという点に力点が置かれていることが、その文法構造からも知ることができる。また、ピダハンの言語にはリカージョンすなわち入れ子構造が存在しない。

ピダハンは、伝来のやり方にあてはまらない道具の移入を拒否し、新しい技術を学ぶことにも興味がない。家屋はごくごく簡素で、所有物といえば鍋とスプーン、あとはカヌーくらいで、私有の概念はほとんどない。彼らは自分たちの暮らし方に自信をもっており、それが彼らの文化の純粋性と独自性を守ってきたのだという。

ピダハンの言語には、口笛語り、ハミング語り、音楽語り、叫び語り、通常の語りという様式がある。口笛語りは狩りの場面に、叫び語りは大雨の機会などに適している。ハミング語りは囁き声に該当するが、音素を11しかもたず、声調で語彙を識別する彼らの言語の場合、囁き声ではなくハミングの方が聞きとりやすいものとして発達したのではないかという。

生活様式つまり文化が、彼らの言語と文法を規定しているというサピア的な見方を強調し(ただし強い言語決定論は否定する)、ピダハンの言語が、チョムスキー流の普遍文法論やピンカー流の言語本能論に対する反証になっているとするのが、エヴェレットの主張である。ピダハン語におけるリカージョンの不在について、それは「文化の原則によって、リカージョンを認めないのだ」(331)。

本書のもうひとつの軸は、エヴェレット自身の「冒険物語」である。最初彼は、伝道師として聖書をピダハンの言語に翻訳することをめざして、家族とともに苦難の生活を歩み、妻子が生死の境をさまよう経験もする。なるほど、やはり宗教的動機は強い。ところが、幸か不幸か、ピダハンの人々は究極のミニマリストかつ現実主義者――そうではない伝統部族もあっただろうに――で、自己決定と平等と平和を重んじ、しかも最高に幸福を享受しているというので、最後にはエヴェレットは無神論者に転向する。これで家族は離れていってしまったらしい。

まず、21世紀にもこういう部族が生きているという事実だけでもすばらしく、その文化に肉薄したこの書は、評判通りのおもしろさだ。だが、まったく引っかかりがないというわけでもない。

まずは、チョムスキーやピンカー批判。エヴェレットの文化相対主義、というよりは文化や言語をある程度独立変数とみる見方は、僕にしてみれば最初から当然で、文化や言語を普遍的基盤に還元する見方が支配的となっている(?)状況の方が不自然だ。だけん、鬼の首をとったように言うのはどうかと。エヴェレットがそうした諸研究の中心地に近いところで言語学を学んだことで、それらと対決せざるをえなかったという背景はあるのかもしれない。最近だと進化心理学なんても流行っているが、そこには同じ不自然な還元主義的衝動を感じる。

もうひとつ、キリスト教を携えて「未開の村」に入ることもそうだし、そのあと現地の文化に目を醒まさせられるという物語も、なんだか昔からよく聞くパターンだ。前提がまず不自然という意味では、先の点と共通している。その前提からこれだけの情熱が生じているのだろうけど・・・・・・。

とはいえ、厚いフィールドワークをもとに、こうして明らかにされたピダハン文化やそこから得られる洞察は、いくらかのロマン主義が混入しているにせよ、まちがいなく魅力的だ。今度またチョムスキー寄りになるかもしれないが、やはり彼らが精妙な言語を操ること、エヴェレットが苦労の末であれ意思疎通可能になっている点も重要である。

YouTube には、エヴェレットのドキュメンタリー The Grammar of Happiness もアップされているようだ。こちらは、本書の四年後に発表されたらしいが、その後のピダハンの、ブラジル政府による「文明化」と変容についても描かれている。

[J0113/201215]