NHK出版、2004年。なるほど、デイヴィドソン。まったく読んだことがないが、異端的な位置づけなんだな。フレーゲやタルスキの議論に通じていれば、もう少し文脈が分かるのかもしれないが。本棚にあるハッキングの『言語はなぜ哲学の問題になるのか』を覗いたら、デイヴィドソンのところも読んだことがあるらしく、いくつか線など引いているがまったく覚えていない。ハッキングの記述も、デイヴィドソンの異端児ぶりを強調している。

筆者は、デイヴィドソンをデリダに寄せて解釈。デイヴィドソンを知らないから解釈の正確さまでは評価できないが、この本自体は難解にちがいないデイヴィッドソンの議論をときほぐしたリーダブルな解説書になっている。

第1章 言語哲学は意味をどう扱うか
第2章 真理と解釈の第一次性
第3章 コミュニケーションの哲学へ向けて
第4章 「言語」ではなく数多くの言語が存在する

以下、私がかなり勝手にパラフレーズしてまとめておく。

デイヴィドソンは、話し手と聞き手の間に成立するコミュニケーションを問題とする。その際、単位となるのは単語や文法ではなく「文」であり(この発想はフレーゲに由来する)、体系としての言語でもない。コミュニケーションが成立するのは、両者のあいだで予め言語が共有されているからではない。

話し手が伝えようと意図した内容と聞き手の解釈が一致したとき、コミュニケーションは成立したと言いうる。解釈の一致は、あらかじめ共有された言語コードによるのではなく、話し手と聞き手が相互に「見込み」をもって当たることによる。デイヴィドソンは「他者を理解したいのであれば、好むと好まざるとに関わらず、われわれは、たいていの事柄において他者は正しいと考えなければならない」と述べ、これを「寛容の原理」と名づける。

聞き手において重要なことは、話し手の信念や意図を正確に捉えるしかたで解釈を行うことである(68)。「共有されなくてならないのは言語ではなく、話し手のことばについて解釈者および話し手が持つ理解である」。話し手は自分の意図を伝えようという態勢で臨み(フレーゲの「力」に当たるか)、解釈者は「話し手の性格、役割、性別に関する知識」「世の中への精通」を含めた諸種の知識から「事前理論」をもって、話し手の発話に臨む。そこから出発してその都度調整を行い、話し手が発話において意図する「当座理論」の共有に到達したときに、合理と理解(の漸近線)に到達することになる。

デイヴィドソンにとって、コミュニケーションはその場その場でやりくりされるものであり、「言語能力とは、ときどきの当座理論において一致する能力」にほかならない。(森本が紹介するところの)彼は、言語の規約性や規則性といったものをきっぱりと切り捨て、したがって「日本語」「英語」といった言語体系の存在を認めない。デイヴィッドソンにしてみれば、コミュニケーションが成立することは、大仰な意味論を介しなくては理解できない「謎」ではないのだろう。森本はあとがきで次のように述べる。「決定不可能性にたじろぐ必要はない。ミニマルな論理能力と寛容の原理をたずさえて他者に向き合い、身についたスキルを活用して解釈を試みる限り、そこそこの理解は成立する。共有された言語や意味に訴えなくても、何とかうまくやりこなせるようにわれわれは出来ている。他者の理解とはそれ以上のものでもそれ以下のものでもない。すべては程度問題である。彼はそう言っているように思えました」(123)。

たしかに、言語と意味と理解がぴったり対応するのであれば、人と人とが繰りかえし出会う必要はなくなるだろう。コミュニケーションがその都度独自のものなのは、言語と意味が一対一対応していないからである。

三点ほど、疑問点。文を単位とする一方で、二者関係の発話における文がずっと想定されている。デイヴィドソンの理論では、テキストを読んで理解に到達することはどのように説明されるのだろうか。
 二点目、これはみんなが思いそうだが、言語の規約性を否定し、言語の共有を理解の基盤とする見方を否定することが、なぜ言語の存在そのものを否定することになるのだろうか。本書の説明を読んでも、もうひとつ腑に落ちない。
 三点目、筆者は、記号の解釈の一義性を否定するデリダの見方を、デイヴィッドソンの見方と重ね合わせるが、それはどこまで正当な解釈なのだろうか。

[J0112/201214]