Author: Ryosuke

永井孝志ほか『世界は基準値でできている』

永井孝志、村上道夫、小野恭子、岸本充生、副題「未知のリスクにどう向き合うか」、講談社ブルーバックス、2025年。『基準値のからくり』という書物の続編らしいが、企画の時点でもう良書。

第1章 男と女の基準値 テストステロンルールの迷走
第2章 新型コロナの基準値(1) 「距離と時間」の狂騒曲
第3章 新型コロナの基準値(2) 空気感染とはなんだったのか
第4章 トライアスロンと水浴の基準値 セーヌ川だけが汚いのか
第5章 放射線の基準値 誰が処理水と除去土壌を受け入れるのか
第6章 原子力発電所の基準値 どのくらい安全なら安全なのか
第7章 治水と防潮堤の基準値 科学だけでは決められない
第8章 がん検診の基準値 受けるべきか、受けざるべきか
第9章 PFASの基準値 世界から追われる嫌われ者
第10章 新しい「食」の基準値 コオロギは本当に安全なのか
第11章 AIと個人情報の基準値 自分で基準をつくっていく

基準値によくある特徴、① 従来型の科学だけでは決められない、② 数字を使いまわしてしまう、③ 一度決まるとなかなか変更されない、④ 法的な意味はさまざまである、とのこと。

「基準というものは、考えるという行為を遠ざけさせてしまう格好の道具である」。

  • 空気感染と区別して、マイクロ飛沫感染という設定をしたことは、著者らにも理由不明である。
  • CO2濃度の換気量の基準は、もともと体臭の充満の許容度に由来する。
  • 踊り場など、学校の天井の高さの規制は、石炭ストーブによる一酸化炭素中毒防止の規制が140年間残ったもの。
  • 水浴による感染リスクの基準値は、水道水よりはるかに高い。
  • 原発事故の処理水について、直接の飲用ベースで設定しているが、放出された海水中の魚などを食べたときのリスクをベースにした方が適当ではないか(という著者の意見。ただし、後者の数字でも十分安全という判断になるらしい)。
  • 温泉の禁忌症として妊娠が指定されていたことには根拠がなく、旅行を控えよくらいの意味だったと推測される。
  • 日本は工学プラント管理にリスク許容基準が採用されておらず、個々の装置の安全を確認する方法を採っている。原発はその例外。
  • 福島第一原発事故当時の原子力委員会委員長の発言、「私の最大の誤りは、安全目標の基準を公衆の過剰被曝において土地汚染の発生確率におかなかったこと」。
  • 「200年に1回の降雨」とは、1年間に200分1の確率で発生するという意味であり、たくさんある河川ごとにその確率が判断されている。
  • 治水計画のリスクの考え方には、既往最大主義と「○○年に1回」という確率主義がある。

・・・・・・とまあ、メモの一部だけれども、いろいろおもしろい一冊。

[J0589/250710]

川村邦光『弔いの文化史』

中公新書、2015年。前半は歴史の話、後半は著者自身のフィールドワークを活かした記述になっている。

 序章 天災と弔い
第I部 弔いの方法
 第1章 鎮魂とは何か
 第2章 火葬と遊離魂の行方―『日本霊異記』の世界
 第3章 弔いの結社と臨終の技法―源信の「臨終行儀」と活動
 第4章 女人の救いと弔い―蓮如の実践
第Ⅱ部 弔いの風習
 第5章 死者の霊魂の行方
 第6章 弔いとしての口寄せの語り
 第7章 ホトケ降ろしの語りと弔い
 第8章 弔いの形としての絵馬・人形
 第9章 災厄と遺影

折口信夫は、念仏踊りなどの風習から、「未完成な霊魂が集つて、非常な労働訓練を受けて、その後他界に往生する完成霊となることが出来ると考へた信仰」を想定したという。「「未成霊」は孤独なのではない。この世の若者の修練・苦行によって、あの世の「未成霊」を成熟させることができ、生者と死者は連携して、あるいは連帯して、ともに「魂の完成」を果たすことができるとするのである」(165)。

たしかに、こう説明すると、あれこれの民俗行事の意味を説明できるような気はする。著者はこのような「霊魂を成熟させる風習」として、ムカサリ絵馬にも言及する。

「彼岸と此岸で同時並行する、未熟な霊魂から完成した霊魂への発展、すなわち霊魂の更新とは、折口の言うタマフリの概念に相応しよう。このタマフリはタマシズメ、おそらくいく度にも及ぶタマシズメを重ねることによって達成させる。こうした未決の霊魂を更新させようとする実践は、生者と死者のともに営まれる、弔いの社会的な心性史のなかに位置づけることができるのではなかろうか」)(266)

[J0588/250709]

相馬拓也『遊牧民、はじめました。』

副題「モンゴル大草原の掟」、光文社新書、2024年。
調査をしてもやっぱり、モンゴル人は乱暴で自分勝手だ、というような告白からはじまる書だが、全体としてはちゃんとしたエスノグラフィー。やはり、背景には厳しい自然環境があるということもわかる。

第1章 遊牧民に出会う
第2章 草原世界を生き抜く知恵
第3章 遊牧民にとっての家畜
第4章 野生動物とヒトの理
第5章 ゴビ沙漠の暮らしを追う

アルタイでの暮らし、「冬の暮らしは、まるで嵐をやり過ごすように、静かにじっと耐え忍ぶように過ぎてゆく。そんな生活の娯楽はやはり世間話だ。なかでも、○○のやつが死んだとか、△△の息子が悪さをしたとか、隣人の生活事情や人間模様を、日がな一日ずっと聞かされ続けた。どんなご家庭を訪問しても、人間模様の話題は尽きず、本当にお互いがお互いをよく知っているものだなと、ある意味感心させられた。狭く変化の乏しいコミュニティ、いわばムラ社会にとって、何よりの楽しみは「話題」なのだと感じさせられる」(171)。

「コミュニティに溶け込むことは、それほど難しいことではない。強いていえば、①現地語の習得、②隣人・知人の名前を覚えること、③コミュニティの内部の人間関係に精通することの3つができれば、どんなコミュニティの壁も乗りこえられるはずである」(172)。

「最近の牧夫たちは、家畜を増やすことに必要以上の執着と熱意を注ぎ込んでいる。富めることと、金を得られることがすべてに優先するという、独自解釈の歪んだ資本主義観が遊牧民の金銭感覚や弱肉強食観と融合した結果、モンゴル人の拝金主義と権威主義、かつ他己犠牲の精神を加速度的に社会に浸透させるようになってしまったのだ」(177)。

家畜個体識別能力の高さ、家畜の分類体系(呼称)の精密さの話。ウマの毛色も、著者の調査によると142色を識別していたそうで、一説では400色の分類があるらしい。

特別な存在としてのラクダ。「ゴビ砂漠の遊牧民とラクダとの関係を表すのに、次の語りほどよく表したものはない。「かつてのラクダの騎乗には、”ウージン”と呼ばれる籠が用いられたよ。このウージンは、草原での燃料となる糞集めのカゴとしても利用されたんだ。ウージンを裏返して台にして、妊婦を横たえて、出産の分娩台にもしたしね。葬儀のときには、裏返したウージンをラクダの左右に載せ、故人をコブのあいだからウージンに横たえて葬送したものだ」」(313)。

[J0588/250705]