Author: Ryosuke

西田洋平「サイバネティクスの二つの潮流と生成AI」

『現代思想』2024年7月号、119-129頁。

サイバネティクスから流れ出る潮流には、人間・生物機械論的な潮流と、人間・生物非機械論的な潮流のふたつがあり、後者は「ネオ・サイバネティクス」とも呼ばれる。本稿は、ウィーナーのサイバネティクスと、より近年の自己組織的システム論との連続性を強調する内容となっている。

「ネオ・サイバネティクス」に挙げられるものは、ハインツ・フォン・フェルスターのセカンド・オーダー・サイバネティクス、マトゥラーナ&ヴァレラのオートポイエーシス論、エルンスト・フォン・グレーザーズフェルドのラディカル構成主義、西垣通の基礎情報学がある。

ネオ・サイバネティクスの主題は、自律した=閉鎖的なシステムである〔システムの閉鎖性という語の使い方はとりあえず西田氏の記述のままで〕。機械は他律システムであり、だからネオ・サイバネティクスは人間・生物非機械論的なのである。もちろん、生成AIも他律的である。

自己を再生産する閉鎖的システムは「認知する」。「現実は個々の観察者によってつくられている、構成されていると考えなければならない。これがネオ・サイバネティクスによって導かれる、現実の構成主義的な捉え方である」(121)。したがってネオ・サイバネティクスは「個々のシステムに固有な意味世界を前提として、情報という概念を捉える立場である」(122)。

こうした見方の原点は、循環的メカニズムによって現実を制御する、フィードバック機構に注目したウィーナーにある。「たしかにコンピューターとして考えれば、無限ループはただ循環するだけで、意味のない処理である。それに対してウィーナーは、フィードバックという循環的メカニズムにこそ積極的な意味を見出していた」(123)。「ウィーナーが始めた目的論的機械としての生命システムの探究は、通常の意味での機械とは異なる機械という意味で「非機械論的」な生命システムのメカニズムを明らかにするところまで、たどり着いているわけである」(123)。

「ネオ・サイバネティクスのさらに特異な点は、こうした理解を自らの理解にまで適用する点である」。「ここに至って、循環的メカニズムはそれ自体の理解についても循環的メカニズムを通じて語るという段階へと突入している」(123)。

情報に関して、「しばしば誤解されているが、制御は目的がなければ意味がない。自動制御が文字通りの自動制御であるためには、目的が設定されていなければならない」(125)。生物は、生きていること自体が目的として機能している。〔システム制御に目的設定が必須というのはよく分かる。ただし、目的概念について他の用法との混同には注意が必要〕

生成AIの登場・普及は、「神経活動を形式ニューロンによる機械的処理の延長線上に捉えるという点で、サイバネティクスの人間・生物機械論的潮流の一つの到達点となっている」(126)。

一方、オートポイエーシス論(サイバネティクスの人間・生物非機械論的潮流)からみれば、人間の意識と生成AIとを重ねあわせる見方は明確に批判される。生成AIは明らかに他律システムである。また、言語能力のような機能にかんする特徴は、システム自体の特徴ではない。「オートポイエーシス論では、機能という概念は、目的や用途などと同じく観察者による記述の領域に属する概念であって、機械そのものを特徴づける概念ではない。その機械をその機械たらしめているのは、組織化の仕方である」(126)。組織化もまた観察者による記述によるものではあるが、組織化は機械それ自体のメカニズムを指すものだからである。

取り扱う言語やその意味の次元も異なる。「重要なのは、自律システム間のこうした調整的な相互作用が、言語の本来の役割として考えられることである。生成AIが操る言語データには、この意味での言語の動詞的な側面がない」(127)。

以上、本稿の要旨。生成AIと人間意識とを峻別する見方には説得力がある。すこし想像したのは、生成AI単体では閉じた自律システムを構成していないのはたしかだとして、「人間意識+生成AI」といったひとつの新しいシステムを想像することはできないかということ。あるいは、「人間の意識集合+ネット空間」についても同様。「インターネットの技術のおもしろいところは、「いいかげん」な技術の集合であることです。それが、なんとなく動く」(村井純『インターネット』岩波新書、1995年)。

[J0632/260114]

長谷川健司「クローズド・システム」

副題「サイバネティクスと冷戦期の生態学的想像力」、『現代思想』2024年7月号、191-200頁。

ウィーナーのサイバネティクスでは、熱力学第二法則=エントロピー法則が核心におかれ、その例外としての「生命」に特別な位置があたえられている。生物と機械とは、「宇宙を貫く無秩序化の傾向に逆らう『ポケット』」としてパラレルな存在とされる(192)。サイバネティクスが意識されなくとも、こうした世界観は広く現在まで影響を及ぼしている。こうした世界観に懸念を抱いていたのが、イヴァン・イリイチである。

イリイチは、生態学が管理と操作へ向かう欲望と結びついていることを懸念した。この観点からは、「宇宙船地球号」という捉え方も批判されるべきことになる。「人間が「宇宙船地球号」の構成員だとみなされるとき、環境倫理と呼ばれるものは、科学者によって設計された「生命維持システム」に奉仕する宇宙旅行者のライフスタイルを採用するかどうかという選択の問題へと矮小化することとなる」(197)。そこに規律訓練と統治の思想との結びつきがある。
〔所感〕なるほど、現在のSDGsなどにも適用可能な批判。宇宙飛行士が外からみた青い地球の鮮烈な画像とともに、こうした生態学的イメージが、強いロマンティシズムと結びついていることに注意しておきたい。

長谷川氏は、じつはイリイチの件と同形の問題意識を、ウィーナー自身も抱えていたことを指摘している。サイバネティックスとはいったい何だったかを見極めなくてはならない、「私たちはそうすることではじめて「宇宙船地球号」から下船するためのチケットを手にすることができるのである」(198)と、この論考は締められている。

[J0631/260114]

高畑鍬名『Tシャツの日本史』

中央公論新社、2025年。よい社会史・文化史の本は、研究としても価値があるし、読み物としてもおもしろい。これはそんな一冊で、広い層にお薦めできる。丹念にTシャツの歴史、とくにタックイン・タックアウトの流行の変遷をたどっていくのだが、たんに冷静にというのではなく、なぜかそこに著者の熱い怨恨の情がこめられているところがまたおもしろい。

序章 ぼくらがTシャツで旅に出る理由
第1章 誕生 1868-1955
第2章 思春期 1956-1979
第3章 失踪 1980-1988
第4章 反抗期 1989-2004
第5章 黒歴史 2005-2010
第6章 輪廻転生 2011-2024
終章 2075年のナード・ファッション 2025-2075


抜き書きメモ。
「太陽族や六本木族は、特殊な少数の人たちによって形成されていた集団だった。みゆき族では、中学生が参加できるほど、ファッションへの敷居が下がったのだ」(88)。

1980年代、雑誌の時代。「まわりに「あいつ遅れている」と思われたくない。気がつけば日本中で、かつてないほどの同調圧力が生まれていたのだ。雑誌の時代というのは、呪いの時代の始まりでもある」(109)。

「渋カジによって雑誌と路上の関係がひっくり返った」(134)。「リアルタイムというのは油断している」という、半田健人氏の言葉が思いだされる。

「若者立ちの間で、ファッションに対する初期衝動が「何らかの逸脱」ではなくなったこと。ここがポイントだ。一つ上の世代へのアンチテーゼの意味合いが消えたのである。渋カジ族までは、服を着る行為のなかに、前の世代が「ナシ」だと思っていたファッションを「アリ」にする文脈のハッキング、攻撃的な意図が含まれていた。渋谷系以降は、そのような文脈の書き換えは主題にならず、文脈の再発見と共有へと若者たちの気持ちがうつっていく」(158)。

「ファッションの流行は、制服化していく。みんなと同じ制服を着ていないことは一目でわかる。だから暴力的なのだ」(170)。

「洋服が日本に導入されて150年。Tシャツを主軸にしながら若者たちのファッション観をたどっていくうちに発見できるのは、服を選ぶときの動機が三つしかないことだ。1.街を挑発したい 2.モテたい 3.バカにされたくない。ここにさらに4番目としてノームコア的な「服を選びたくない」を入れてもいい。ポイントは、1番と4番は商売にならないことである」(205)。

「Tシャツの日本史は、不良とおたくの二本柱による螺旋階段だ」(234)。

「いまは歴史にいつでもアクセスできてしまう。アニバーサリーが意味をなさない。若者たちは、○○コーデと称して気軽にいろんなスタイルを取り込んでいく。尾崎豊コーデ、吉田栄作コーデといったハッシュタグに、消費期限はないのである。忘れられることがなくなると、ファッションの時刻表は狂ってしまう」(239)。インターネットのアーカイブによって、ファッションの時代的遷移のありかた自体が根本的に変化したと。

[J0630/260104]