集英社新書、2019年。

第一章 奴隷制と自由──啓蒙思想
第二章 奴隷労働の経済学──アダム・スミス
第三章 奴隷制と正義──ヘーゲル
第四章 隠された奴隷制──マルクス
第五章 新しいヴェール──新自由主義
第六章 奴隷制から逃れるために
終章 私たちには自らを解放する絶対的な権利がある

奴隷をめぐる思想史。啓蒙思想家やその後継者たちが、その当時の黒人奴隷をどう捉えていたか。また、ヘーゲルを経て、マルクスが喝破した資本主義下の奴隷制度は、まさにいまも生きているというそういうお話。

アダム・スミスが経済的コストの問題として考えた奴隷と自由な労働者との比較を「正義/不正」の問題として整理したのがヘーゲルの法哲学であり、それがマルクスの思想的出発点となった(107)。

「黒人奴隷には「自らを解放する絶対的な権利」がある。これは、同時代の自由主義者も博愛主義者も認める「正当な」権利だった。それを主張することで「直接的奴隷制」の廃止に成功したならば、次は「環節的奴隷制」の番である。そして、ヘーゲルが一貫して奴隷自身の「自らを解放する絶対的な権利」を擁護したように、マルクスもまた、賃金労働者自身が「間接的奴隷制」に気づくことを解放の必要条件としていた。その第一歩が、長時間労働を不当なものとして拒否することだったのである。」(133)

「スミスにとって、奴隷は「財産を取得できない人」であるのに対して、「自由な労働者」は「ある程度商人となる」。自分を労働力という「商品」の保持者と見なし、「自由な自己決定」によって自らの「商品価値」を高めることに努力し、他方ではことあるごとに「自己責任」を問われ続ける「商人」としての賃金労働者。そのような「商人」意識を内面化してしまった労働者こそ、マルクスの説得対象なのである」(150)。うーむ、身も蓋もない、鋭角的なまとめ。身につまされる。

「マルクスが「隠された奴隷制」のヴェールをはぎ取ろうとしてから、すでに一五〇年が経過した。その間、労働者たちは、そして私たちは〔マルクスが求めた〕「並外れた意識」を内面化することができたのだろうか。「賃金制度の廃止」を要求することができただろうか。現実はむしろ逆行している。資本主義がグローバル化して地球の隅々を覆い尽くそうとしている現在、私たちはスミスの言う「商人」どころか、意識の上では「資本家」になってしまい、自分自身の労働力をたんなる「商品」を超えて「人的資本」だとさえ見なすようになっている。つまり、自分自身の労働能力が、未来の利益を生み出す「投資」の対象であるかのように論じられている。本当にそれが「資本」ならば、自分では働かなくても利潤や利子をもたらしてくれるはずなのに、少なくとも日本における労働者の実質的な拘束労働時間は、「八時間運動」がいまだに切実な要求になるほどの長時間だ」(158)。あががが。この段落ひとつで痛いところを正確に突いてくる。

現代社会批判というだけでなくて、思想史の試みとしても、新書とは思えない濃さだ。

[J0186/210816]