Author: Ryosuke

野口裕二『増補 アルコホリズムの社会学』

副題「アディクションと近代」、ちくま学芸文庫、2024年、底本は1996年。前半は、日本のセルフヘルプ・グループやアメリカのAAに関する丁寧な解説。第九章以降が、アディクションの近代的性格を論じていて重要。

序 章 アルコホリズムへの社会学的接近
第1章 アルコホリズムとスティグマ
第2章 アルコホリズムの医療化
第3章 家族療法としての断酒会とAA
第4章 セルフヘルプ・グループの機能
第5章 セルフヘルプ・グループの原点:AA
第6章 集団精神療法
第7章 集団精神療法の微視社会学
第8章 地域ケアとネットワーク・セラピー
★第9章 共依存の社会学
★第10章 アディクションと近代
★補論1 アディクションの社会学
補論2 オープンダイアローグとアディクション
★補論3 AAとスピリチュアリティ
あとがき/文庫版あとがき
解説(信田さよ子)

集団精神療法に関して。「治療者は、グループに操作介入する積極的な存在としてではなく、他の参加者と同じ無力な一参加者として、逆説的にグループの存在を前景に立たせる役割を担う。・・・・・・斎藤〔学〕はこれを「治療的無力」と呼び、他者への依存を特徴とするアルコール依存症者の集団精神療法においてとりわけ有効な戦略とみなしている」(117)。

近代社会のシステムと、そこにおける自己のあり方は、それ自体が共依存的である。アディクションの発生基盤はそこにある。もともとアディクションは「もの」に対する症状とされたが、近年はそれが「ひと」に拡張されてきている。「アディクション概念の「もの」から「ひと」への概念的転回」(189)。

ベイトソンはそのシステムから降りようとする。ギデンズは、そうした自己のあり方を洗練させようとする。デュルケームが指摘した「エゴイズム」や「アノミー」も、「終わりのない反復であるという点では、アディクションの一形態と考えることができる」(207)。

「再帰的であれという規範に従えば従うほど、結果として、再帰的でない状態に陥っていく」(210)。「アディクションを回避できていることが、自己の望ましさの証明となる一方で、望ましい自己であろうとする再帰的な努力こそがアディクションの深みへと人々を導く。いま、われわれは、このようなきわどいメカニズムを頼りに自己をかたちづくらねばならない状況におかれている」(211)。

また著者は、AAを支えるカーツの思想に含まれる「スピリチュアリティ」の意義を高く評価している。「「スピリチュアルなもの」を非科学的で非合理的なものとして否定し排除する思想こそがアルコール依存症を生み出している。アルコール依存症は「完全な合理化とコントロールへの欲求」に支配された結果であり、「アルコールへの嗜癖の根は、スピリチュアルなものをまさに誤解し否定したところにある」と〔カーツは〕考えたのである」(223)。このスピリチュアリティの概念が、宗教とも心理とも異なるものとして導入された点に注目している。「「弱さ」と「正直さ」、この二つの要素は人間のスピリチュアルな側面と深く関係しているような気がする」(247)。本書では、スピリチュアリティを合理性としか対置していないが、近代の再帰的自己と関係づけて論じるのもおもしろいのではないか。

信田さよ子さんの解説から。「健康保険証を呈示してから始まる保険診療の一環は、あくまで疾病治療を中心としている。いくら精神科医が「僕は病気扱いしないんです」と言っても、診療報酬が発生している以上それは制度的には「疾病を治療している」ことになる。・・・・・・非医療モデルの援助は、医師以外の職種でしか実現できないとつくづく思わされる」(264)。

[J0553/250124]

打越正行『ヤンキーと地元』

副題「解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち」、ちくま文庫、2024年、底本は2019年。ちくま学芸文庫ではなくてね、なるほど。

第1章 暴走族少年らとの出会い
第2章 地元の建設会社
第3章 性風俗店を経営する
第4章 地元を見切る
第5章 アジトの仲間、そして家族
補論 パシリとしての生きざまに学ぶ―その後の『ヤンキーと地元』
解説 打越正行という希望(岸政彦)

著者の論文類を読んだことがないので、この本だけの感想を。

魅力ある著者による、魅力ある人たちを描いた、凄いエスノグラフィーとして賛辞を寄せることはもちろんできるが、それで済ましていいのだろうかとも思う。『ハマータウンの野郎ども』と比べる向きともあるが、あちらがかなり高度で周到な理論的考察とセットになっているのに対し、この本はひたすら記述に徹していて、およそ理論的考察のようなものはない。おそらくは意識的に避けている。

調査という営みは相当不自然なことだと思うが、著者が調査にかける情熱がどこからくるのか、謎に思われてくる。その情熱の強さや対象に対する「誠意」がひしひしと伝わってくるだけになおさらだ。大学教員は、学生にこんな、ものになるかどうかわからない調査を勧めることはできないだろう。自分で決意して自分で取り組む人にしか、こんな調査はできない。

岸さんの解説も、この本に関してはいまいちだ。「沖縄の語り方を変えた」というが、従来の沖縄イメージの是正ないし多元化のようなことが、ことの本質だとは思えない。むしろ、ごろっと手応えのある謎ないし問いかけを、読者の眼前にただ黙って置いていくような書と思える。

[J0552/250123]

石塚尊俊『顧みる八十余年』

副題「民俗採訪につとめて」、ワン・ライン、2006年。著者の調査研究歴をたどった自伝的記述だが、このほかに『民俗学六十年』(一九九八年)があるので、本当はあわせて読む必要がありそうではある。

1 サエの神に始まって
2 タタラ・金屋子神をたずねて
3 納戸神との出会い
4 俗信の由縁を探る
5 イエの神・ムラの神、年頭行事
6 離島を訪ねて
7 奥所の神楽
8 民俗の地域差を考える:北陸同行地帯と安芸門徒地帯

とくに戦前における、著者若かりき頃の民俗採集には、知られる民俗がまだまだたくさん埋もれていた頃の夢がある。著者は國學院大學在学中に折口信夫の講義を受けており、公開講演として柳田國男の話も聞いている。たたらについて書いた論考が柳田の目にとまるなどのこともありつつ、1946年に直接、柳田國男を訪ねるにいたっている。

いまからみれば、あれこれの論文を読む以上に、こうした調査記録の方がおもしろい。民俗事象を切り取って論じるタイプの民俗学的な論文は、本来、調査記録すなわちフィールドノートとセットで読まれる必要(したがって書かれる必要)があるのではないか。その意味では、このように自身の調査研究歴を記して出版できた氏のようなケースは幸運である。

[J0551/250122]