Category: Japanese Articles

石岡丈昇『エスノグラフィ入門』

フィールドやフィールドワークという方法に対する、著者の誠実さを感じる概説書。ちくま新書、2024年。

第1章 エスノグラフィを体感する
コラム1 サイクリストの独自世界
第2章 フィールドに学ぶ
コラム2 ペットによる社会的影響とその効果
第3章 生活を書く
コラム3 遊びとしての公的空間での眠り
第4章 時間に参与する
コラム4 手話サークルから見るろうコミュニティとコロナウイルス
第5章 対比的に読む
コラム5 リスクから見るサブカルチャー
第6章 事例を通して説明する
コラム6 部活動におけるケガの社会学

「おもしろいエスノグラフィには、印象的な場面が必ず描かれています」(30)。

「エスノグラフィは不可量のものを中心に据えますが、だからといってそれだけで作品が成立するわけではないのです。見過ごされがちな不可量のものを記しながら、それと同時に可量のデータも副次的に繋ぎ合わせることで、ひとつの作品を作り上げていくのです」(87)。

「スポーツ振興策は、スポーツを主語にして考えます。スポーツが地域をどのように活性化するか、という観点です。そうではなくて、地域を主語にすることを、私たちのプロジェクトでは試みました。地域がスポーツをどのように取り込むのか」(93-94)。

アフリカ研究について、アフリカの人々の主体性が「徹頭徹尾、削がれている」「問題地域」史観の問題性(114)。それとは異なる、アフリカニスト。

「エスノグラフィの調査研究においては、調査者も動かねばならない」(181)。マリノフスキー的原則の、著者による言い換え。著者は「フィールドに流れている時間に参与することが必要になる」と強調しているが、たんなる観察者の立場に留まる調査者は、そうした時間への参与に欠くというわけだ。

文献の読み方についても、フィールドワーカーとしての著者らしさ。サマリーではなく、エスノグラフィー本文を通読することにこだわる。「通読中の時間的経験の内部での読みに、私はこだわりたいのです」(200)。

エスノグラフィーにおける「対比」の手法。「同じ強度で複数の事例を調査して、その結果を比較するという手法」としての「比較」ではなく(237)。「ひとつの事例であっても、調査実践としては複数の事例を調べてはいるのです。ただ、そうした複数の事例を並べて比較したりするのではなく、中心となる事例をより深く捉えるための対比項として他の事例を使っているのです」(236-237)。文献を用いた「対比」でも同様。

エスノグラフィとルポルタージュ(いわゆるジャーナリズムということと同様と思われる)の違い。「エスノグラフィは時間をかけることが許された手法である」(260)。それに応じて、「社会学者は、もっと長いスパンで物事を見ることが可能です。それは情報の最前線ではなく、そこに通底する人間の生活のありようを捉えようとするからです」(262)。

著者は、このコスパ時代、AI時代にあって(とはご本人は言っていないが)、調査に、参与観察に、文献読解に、「時間」をかけることの意義を力説している。

[J0515/240927]

『日本女子水泳のパイオニア:菅谷初穂の歩み』

編集工房is、2014年出版。ほとんど語られることはないが、日本スポーツ黎明期に活躍した人物の評伝。松澤初穂は、市岡高等女学校時代に水泳自由形で日本記録、二階堂トクヨの日本女子体育専門学校に入学し、1932年(昭和7)のロサンゼルス・オリンピックに女子水上競技の主将として出場。1936年のベルリン・オリンピックでは、22歳にしてコーチとして参加している。

第一部 水泳とともに歩んだ96年
第二部 寄稿 菅谷初穂さんとの出会い
第三部 家族に刻まれた肖像

1937年に結婚後は、姑の方針もあって水泳からは離れてしまう。ここからの生活苦の話もそれはそれで。凄いのは、姑をきちんと看取ったあとの1984年、70歳の時からふたたび泳ぎはじめ、86歳まで泳いで、マスターズでは3度も世界新記録を樹立していること。50年ブランクがあってのことだから、やはり天才だったんだね。

自費出版の本のようだが、たいへんしっかりした内容で、貴重で鮮明な写真が豊富。資料としての価値も高い。

[J0514/240923]

ソシュール『一般言語学講義』

小林英夫訳、岩波書店、1972年改訳版。奥付というか表紙裏の原著の記載によれば、底本は1949年に出版されたものの模様。

■ ラング(言語)/ランガージュ(言語活動)/パロール(言)
 ソシュールがこうした区分を設けるのは、言語学特有の考察対象としてラングを切り出し、定義するためである。ランガージュはまさに言語活動の総体として多様な種類のものを含んでいる。これに対して、ラングは「それじしん全一体であり、分類原理である」とされる(21)。つまり、ひとつの「記号体系」なのである(27-28)。
 一方、パロール(言)は個人における言語の遂行である。しかし、個人は言語を総体として担っているわけでない。したがって、言語学の対象としては、パロールとは区別されるところのラングを想定しなくてはならない。「言語を言から切りはなすことによって、同時に1. 社会的なものを、個人的なものから、2. 本質的なものを、副次的であり・多かれ少なかれ偶然的なものから、きりはなす」(26)。
 ラングという記号体系は「聴取映像が概念と連合する場所」に所在しており、「言語活動の社会的部分であり、個人の外にある部分である」(27)。「それは共同社会の成員のあいだに取りかわされた一種の契約の力によってはじめて存在する」(27)。「言語記号は、本質的に心的でありながら、さればとて抽象的ではない」(28)。「言語は、各人の脳裡に貯蔵された印刻の総和の形をなして、集団のうちに存在する」(33)。
 もう一箇所、別のところから引用。「言語活動〔ランガージュ〕の研究は二つの部門をふくむ:一は、本質的なもので、その対象は言語〔ラング〕である、これは本質において社会的であり、個人とは独立のものである;この研究はもっぱら心的である;他は、二次的のもので、その対象は言語活動の個人的な部分、すなわち発声をもふくめた言〔パロール〕である;これは精神的物理的である」(33)。
 こうしてソシュールは、「社会生活のさなかにおける記号の生を研究するような科学」として「記号学(sémiologie)」という名称を提唱する(29)。それは、社会心理学の一部をなすものだという。記号とは、「つねにあるていど、個人や社会の意志からのがれるもの」でありつつ、同時に「社会的に研究されるべき」なのだとされる(30)。

■ 所記(シニフィエ)と能記(シニフィアン)

 言語記号が「心的実在体」として結ぶのは「ものと名前ではなくて、概念と聴覚映像」である(96)。その聴覚映像は「じゅんすいに物理的である資料的音声ではなくて、そうした音声の心的印刻」であって、この意味で「感覚的」なものだと言われる(96)。ソシュールは、記号が結ぶところのこの概念(concept)と聴覚映像(image acoustique)を、それぞれ「所記(シニフィエ)」と「能記(シニフィアン)」と称する。
 ここから、「言語記号は恣意的である」、すなわち「能記を所記に結びつける紐帯は、恣意的である」という「第一原理」が導かれる(98)。言語の恣意性については、『言語の生』(1875年)の著者 Whitney がそれを指摘していたそうだが、しかし彼はその議論を徹底させなかったとソシュールはみている(108)。
 第二原理は、次のように説明されている。「能記は、聴取的性質のものであるから、時間のなかにのみ展開し、その諸特質を時間に仰いでいる:a)それは拡がりを表わす、そして b)この拡がりはただ一つの次元において測定可能である:すなわち線である」(101)。
 もう一点メモ、ソシュールは、言語社会からみた言語を「遺産」として捉える。「じつは、どんな社会も、先立つ世代から相続し・そのまま受けとるべき所産として以外の言語を知らず、また知ったためしもない。言語活動の起原問題が、一般世人の思うほど重要性をもたないのは、そのためである。それは提起すべき問題でさえない;言語学の唯一の現実的対象は、既成特有語の正常・規則的な生である」(103)

 個人的には、ソシュールの議論は、言語の有する社会的性格にアプローチする上で、示唆に富むもののように見える。読む価値・読み直す価値はばりばりある。ソシュールは、言語や記号を「聴取映像が概念と連合する場所」とし、それを「心的」な現象(でもある)と表現しているが、この辺の事情ないし概念は、さらなる精査の余地がある。
 記号論ブーム全盛の頃、日本における代表的なソシュールの紹介は丸山圭三郎によるもので、僕も『言語と無意識』あたりは読んだ気がするが、うろおぼえの印象論では、「意識の深層」を問題にした丸山の議論と、この講義録とのあいだにはだいぶ距離があるような気がする。あくまで丸山の解釈は丸山の解釈、という感じ。もう内容はほぼ、忘れているのだが。
 ソシュールの言語観はね、これ、ルソーやデュルケームの系譜の上に置けると思いますよ。僕の思いつきでは。すでにそういう論考があるなら読んでみたい。

[J0513/240919]