岩本通弥編『覚悟と生き方』(ちくま新書、1999年)所収、172-214頁。死に関して、日本と韓国の状況との比較を多く含んだ論考だが、韓国の記述の精度が高いのが勉強になるポイント。
大陸と共通してみえる沖縄の葬送だが、それも中韓とは根本的に異なる部分があるのだという。「そこにも大きな懸隔があって、韓国や中国の研究者が、類似した沖縄の洗骨習俗をみて驚くのは、亀甲墓という一族の墓に骨が移されてしまったり、遺骨に対して鄭重な待遇を与えながら、33年経つと壇の後ろに骨を捨ててしまったりすることである。韓国においては決して遺骨を捨てるはずもなく、遺骨を一族一緒にすることもない。夫婦合葬はあっても、墓は基本的に個人個人が埋葬されるものだからである」(194-195)。
「韓国の代表的な異常死は、先述してきた未婚子女の死と客死の二つであり、これに溺死者を加えた三種といってよい。未婚子女の死は墓を設営しないほか、特に婚期に達した女性の場合、その霊は処女鬼神と称され、今でもたいへん恐れられている。・・・・・・これに対し、産褥死や幼児の死は、特に異常視とは見なされておらず、日本とはその認識を異にしている。逆に日本において、周辺諸国の文化と違い、ほとんど異状死視されていないのが「客死」である」(202)。
事故死における「日本人の完全遺体や遺骨への拘わり」。「遺体が一部でも残っていると、あるいはそうでなくても、日本人の場合、死に場所にその魂が半ば永続的に留まり続けるような感覚に囚われること、死者の供養を十分に行っていないと感じる、その欠損感であろう」(206)。この辺の感覚は、場面ごとにも異なってみえて、説明が難しいのだよなあ。
「なぜ日本人が風光明媚な場を「死に場所」に選ぶのか、既に見てきたように、第一の原因は、私たちが「死に場所」に霊魂が留まるといった幻想を強く抱くことにある」(212)。加えて、「自分の最期を劇的に演出し、美しい死を迎えるという幻想」を抱くことだという(212)。
「穏やかに、他者に対する恨みを表に出さずに死ぬことが、荒ぶる霊から自己の霊魂を安定させる「成仏できる」ことでもあった。中国や韓国にないのは、この「成仏する」という観念であり、没個性化し、浄まった霊一般に融合するという霊魂観である」(213)。
「「覚悟を決めた」「潔い死」は、ひとり武士の規範であって、それを基に、近代日本が国民全般に拡げた、新たな倫理でしかない。近代の作り上げたものは、いくらでも変更可能である。私たちは今一度、自分たちの文化を見つめ直し、新たに創造してゆかねばならない時を迎えている」(214)。
[J0561/250212]