Month: October 2021

栗原康『村に火をつけ、白痴になれ』

岩波現代文庫、2020年、原著2016年。

第1章 貧乏に徹し、わがままに生きろ
第2章 夜逃げの哲学
第3章 ひとのセックスを笑うな
第4章 ひとつになっても、ひとつになれないよ
第5章 無政府は事実だ

伊藤野枝の伝記、いやいやたしかにすごいインパクトだ。野枝がとにかく凄いわけだが、著者が頻繁に野枝を出し抜くというか、前に出て語り出す。そうでもしないと、野枝の凄さが伝わらないからでもある。

ど根性、と著者も繰り返しているが、野枝の肝の据わり方が凄い。こういう人が現れるんだな。その根幹には「いざとなったら、なんとでもなる」という感覚があって、たしかにその感覚が奪われているところに資本制的な奴隷的状況が発生する。また、セックスや家庭の問題が、非アナーキーな国家体制の根幹にあることを、この書の野枝は理屈としてだけではなく教えてくれる。後年、「個人的なことは政治的なこと」というスローガンにまとめられることを、もっと生々しい迫力をこめて伝えてくれるのだ。

どうだろう、若い頃にこの書を読んだら、もっと大きな衝撃を受けただろうか。でも、野枝の奔放すぎる生き方に通っている筋道までは理解できなかったかもしれない。結婚における同化を否定しているように、情愛を美化するだけのロマン主義の話なのではないのだ。

[J0206/211006]

渡辺慧『認識とパタン』

岩波新書、1978年。アマゾンと日本の古本屋をみるかぎりでは稀覯本ぽくなっているらしく、図書館から借りだして読む。情報科学の哲学的・認知科学的基礎と言えばいいだろうか。数式が出てくる箇所があったりして斜め読みだが、なるほど、今でも、なんなら「コンピューター時代」の今こそ、読む価値のある本だ。

1 パタンとパタン認識
2 データをどう取るか
3 類は実在するか
4 コンピューターによるパタン認識
5 パタン認識と人工知能

著者の主張は、パタン認識や分類というものは、どこまでいっても一義的なものではありえず、価値評価から切り離せないということ。

第三章では、「醜い家鴨の仔の定理」を説明。「二つの物件の区別がつくような、しかし有限個の述語が与えられたとき、その二つの物件の共有する述語の数は、その二つの物件の選び方によらず一定である」(101)。すなわち、もし論理的に考えるならば、すべての二つの物件は同じ度合いの類似性を持っているのであり、ふたつの白鳥の類似性の度合と、ひとつの白鳥とひとつの家鴨の類似性の度合は同じだということになる。したがって、ものごとの類似性は論理的には与えられないし、私たちが類似性の度合を語るのは、ある述語はある述語より重要であるという判断をしているからであり、その判断は脱経験的・脱論理的な種類のものなのである。

最終章ではコンピューターと頭脳の関係性を論じている。コンピューターにできることは次の4つであるという(187-)。(1)ソーティング、情報の選び出し。(2)記憶。(3)論理的演繹。(4)算術。

そして(3)の論理的演繹について、「普通、演繹的な仕事だと考えられる定理の証明というものは、実はコンピューター自身ではできないで、人間の作った(または人間が作り方を教えた)ヒューリスティック(発明法)を必要とします。ヒューリスティックとは論理的なものではなく、従って必ず成功するとは限らない、錯誤試行法のやり方の指針のようなものです。これは普通、人間が直感とか帰納的思考を使って作るものです」(188)。

そして、以上の四つに含まれていない理知的活動の重要なものとして、帰納、パタン認識、言語活動があるとする。これらをコンピューターが実行しているように見えるときも、それは人間の直感と価値評価を教えているからであるという。「言葉には認識言語と情動言語があり、後者はもちろんコンピューターには操作できません。しかも重要なことは、この二つの言葉は実はいつも完全に分離できないのです」(189)。

[J0205/211004]